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超絶紳士プチャーチン(wikipedia)

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その日、歴史が動いた

英米よりずっと紳士でプーチン以上の親日家プチャーチンを知っているか?!

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物理的な距離がそっくりそのまま精神的な距離とイコールになることは珍しいものです。遠交近攻という言葉があるように、外交の場でもそれは当てはまります。

今回は日本から近くて遠いお隣さんにいた、とある紳士のお話です。
当コーナーでは、イギリスが出てくるとすぐに「海賊紳士」との冠をつけがちですが、今回はそんなワンピースな単語はつきません。おそロシアを持ち上げまくります。

不運でも貫いた「親日」

超絶紳士プチャーチン(wikipedia)

超絶紳士プチャーチン(wikipedia)

明治十六年(1883年)の10月16日、日露和親条約の交渉に当たったロシア帝国の軍人、エフィム・プチャーチンが亡くなりました。
この人、日本関係についてはとにかく不運続きにも関わらず、この時代に終生、親日のスタンスを崩さなかった珍しい西洋人です。
明治政府から勲章が贈られるほどの功績を残したのに、教科書では「ペリーの後に来て条約を結んだよ」としか書かれていないという、今日に至っても不運が続いているお人でもあります。

プチャーチンが日本に来る直接のきっかけは、アヘン戦争でした。
アヘン戦争でイギリスが中国(香港)に拠点を作ったことにより、アジアの情勢が変わり始めたのです。
時代を問わず、ロシアの対外政策は基本的に南下=不凍港を手に入れることが第一。
しかし、ヨーロッパ方面では諸国の利害が絡み合い、そうそう簡単に港を手に入れることができません。
「それなら、反対側でなんとかしようじゃないか」というわけです。
シベリア側の港はウラジオストク。冬は凍結しますが天然の良港です。ただ港があるだけではだめで、通商相手として選ばれたのが日本でした。

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「イギリスみたいな海賊と違ってうちは紳士ですから」(後のおそロシア)

当時のヨーロッパではフランス革命からナポレオン1世が台頭して、ロシアに攻めてきました。ナポレオンを撃退したものの、不穏な空気はいまだ続いていました。
ロシア帝国といえど、東西両面で戦争を起こしてまで港を確保する余裕はありません。
そこで「極東では穏便に話をして、ゲスなイギリスと違うってことを見せてやりましょう!」と進言したのがプチャーチンだったのです。

実はロシアでは、プチャーチンに先立つ1792年と1804年に正式に使節を長崎へ派遣しています。
しかし、長崎では鎖国を理由に断られてしまっていたのです。

ところが1853年(嘉永6年)6月3日。
海賊紳士の息子たるシーシェバード的なポジションの新興国アメリカが、なんと外交儀礼を一切無視して、長崎という開かれた港ではなく、江戸湾内の浦賀に直行したのです。そうペリーの黒船来航です。「今年の1億越えルーキーはとんでもないやつばかりだぜ」と幕府が嘆いたのは言うまでもありません。

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KGBな情報収集能力を足の遅さが台無し

ただ、さすがおそロシア。このペリーの動きも事前につかんで、「こりゃいかん!」とあわてて使節を派遣したのがプチャーチンだったのです。
しかも、1852年10月に、彼の一行はロシア西部のクロンシュタットから船を出します。この段階ではペリーの出港(アメリカ西海岸→大西洋→喜望峰→香港)の1か月も早かったのです。さすがKGBすごい情報力だぜ!

ところが……おそロシアならぬ、おまぬけロシア。どこかでペリーに抜かされてしまったのです(唖然)。

で、プチャーチンが香港に着いたときに、ペリーが先に日本に着いたことを知ります。

「ちっくしょー。でも、うちのおそロシアな外交で先に国交をいただくぜ」と、乗り込みますが、なんという紳士。江戸ではなく、またも長崎へたどり着きます。

1853年の長崎でのプチャーチン(wikipediaより)

1853年の長崎でのプチャーチン(wikipediaより)

なにしろ、ペリーが「開国シナサーイ!」と迫ってきて1ヶ月経った1853年7月のことです。
幕府はアメリカへの対応でてんやわんや。
そこへ別の国から「うちとも付き合ってもらえませんか?」と言われても、誰にどこでどんな返事をしていいのかすら決めかねる有様です。しかも、江戸から遠い長崎にいるなら「とりあえず、ほっとけ」となりますよね。

こうしてプチャーチン一行は長崎で散々待たされます。
しかも追い討ちをかけるかのように、十二代将軍・家慶(いえよし)が亡くなってしまい、幕府の中はますます混乱に陥りました。
待ちかねたプチャーチンは何度も催促しますが、効果がありません。
いつまで待てばいいのかもわからない上、本国からは「近々イギリス・フランスと戦争になるかもしれないからよろしく!」なんて不穏な知らせも届くわで、温厚な彼もついに黙っていられなくなります。
「船を乗り換えてきますから、それまでに交渉できる人を用意しておいてくださいね?^^」と、あくまで紳士的な捨てぜりふを残して一旦上海へ引き上げました。
地球半周の航海で、最初に乗ってきた船にかなりガタが来ていたのは事実だったからです。

本国はクリミア戦争、帰るに帰れない中の外交交渉

そして予告通り船を乗り換えられたはいいものの、上海で「ロシアとオスマン帝国が戦争を始めました(キリッ」という全く嬉しくないニュースを耳にします。いわゆるクリミア戦争です。

オスマン帝国には(珍しく手を組んだ)イギリス・フランスが味方しており、いかにロシアでも一筋縄でいかないことはわかっていました。
もし本格的に介入してくれば、プチャーチンの帰り道になる航路が使えなくなる恐れもあります。
プチャーチンはこうして、遠く離れた本国の事情を後追いしながら交渉を進めるという無理ゲーをやるハメになってしまったのです。
常人なら命惜しさに逃げ帰ってもおかしくないところですが、彼は実に真面目な上優秀な外交官だったので、この難題に最後まで取り組みました。

安政東海地震直撃!なんと「お友達作戦」発動!

しかし決意を固めて再び来日したプチャーチンを、天地ごとひっくり返すほどの異変が襲います。
1854年12月23日の安政東海地震です。
このときプチャーチンの乗ってきたディアナ号は下田(静岡県)に停泊していたのですが、船も船員も甚大な被害を受けました。
プチャーチンや中枢となる人物は幸い無事でしたが、下田自体が家屋の9割超が壊滅という有様だったため、交渉は一時中断となります。

ロシアではほとんど地震が起きませんし、プチャーチンに同行していた司祭は「まるでバベルの塔の崩壊を見るようだ!」とまで書いていますから、その恐怖はより大きかったことでしょう。
しかしプチャーチンは下田の様子を見て「何か手伝えることはありませんか?うちの船には医者もいますし、救助に人手が要るでしょう」と幕府側へ名乗り出たのです。
現に彼らは住民の救助に成功し、医師も彼らを診察して数人の命を救うことができました。
この人道的な態度に、幕府は少しずつプチャーチン一行への態度を軟化させていきます。

また、交渉に当たった川路聖謨(かわじとしあきら)とプチャーチンは気が合ったようで、それも交渉に一役買ったようです。
川路が「私の妻は江戸でも評判の美人なので、一人で家にいさせるのが心配なんですよ」と冗談を飛ばすと、プチャーチンも「私も何年も妻を放っておいているので心配です。お察しください」(アナタがたが早く条約を締結させてくれればそんな心配要らないんですけどね?^^)と和やかにイヤm……もとい、切り返しているほどです。
こういうNTRなジョークに本音を織り交ぜつつ、気長に交渉を進められたのは互いの人格を認め合っていたからでしょうね。

日露和親条約(wikipediaより)

日露和親条約(wikipediaより)

二人の努力の甲斐あり、最初の来日から1年半ほど経った1855年2月7日、日露和親条約が無事結ばれました。
後々これに対する追加条約を経て、1858年には日露修好通商条約も締結します。
プチャーチンの無理ゲーは無事終わったのです。

大破したディアナ号はというと、交渉の間伊豆戸田村(へだむら、静岡県沼津市)で修理をしていたのですが、和親条約の直後に荒波で沈没してしまいました。

座礁するディアナ号_Illustrated_London_News_1856(wikipediaより)

座礁するディアナ号(イラストLondon_News_1856、wikipediaより)

どこまで運がないんだプチャーチン。
そのため彼はすぐ帰国することができず、新たな船の完成を待つことになります。

下田の住民以外も知っておきたいイイロシア人

幸いディアナ号の中から運び出せた荷物の中に西洋船の設計図があったため、これを戸田村の船大工に渡して作ってもらえることになりました。
現代からするとこれまた結構なムチャ振りですが、幕府側としても「作り方教えてもらえるんならぜひウチで!!」とやる気満々だったようです。
新しいものを見るとやってみたくなる・改良したくなる日本人気質が爆発したんでしょうか。

こうして利害の一致した日露双方で協力し合い、日本名物・突貫工事によって同じ年の春には代わりの船を作ることができました。
とはいえプチャーチンが納得できるほど出来は良かったようで、感激した彼は新しい船を「ヘダ号」と名付けます。
ロシア語でも「ヘダ」って発音できるんでしょうか。教えてエ口イ人。

そして彼はヘダ号でシベリアのニコラエフスクという港に着いた後は陸路で首都・サンクトペテルブルクに帰還したのでした。
その後も日本からの留学生に便宜を図ったり、ロシアに日本公使館ができたときには諸々の渡りをつけたりと、急速に西欧化していく日本に惜しみなく協力してくれたのです。
明治維新後に外国人として初めて勲一等旭日大綬章(日本で一番名誉ある勲章)を贈られたのは、下田での救助だけでなくこうした国としての恩に報いたものだったのでしょう。

彼は叙勲後、2年ほどしてパリで亡くなりましたが、最後まで親日を通しました。
プチャーチンの死後に娘のオーリガが来日し、遺産から戸田村へ100ルーブル(ざっくり換算で現在の1400~1500万くらい)が贈られています。
彼女も日本には好意を持っていたようで、当時発足したばかりの日本赤十字などに寄付を行いました。
この縁と感謝を忘れず、今でも戸田村にはディアナ号の錨(昭和五十一年引き揚げ)やオーリガの使った日用品などが、プチャーチン父娘との縁と共に保管されているそうです。

人種も文化も何もかも違うお隣さんですが、ロシア帝国と日本にはこんな繋がりもあったのです。
プチャーチンがもっと知られていたら、紳士の枕詞はイギリスじゃなくてロシアになってたかも……というのは言い過ぎですかね。

長月七紀・記

参考文献

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参考サイト
http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102809.php




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