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その日、歴史が動いた

教科書上初の征夷大将軍に坂上田村麻呂が任命される

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日本の歴史では「将軍」というと、普通、幕府のトップのことを意味します。
しかし、当初この役職は幕府というシステムとは関係ありませんでした。
幕府という政治体制を作ったのは源頼朝ですが、彼以前にも征夷大将軍に任じられた人はたくさんいるからです。
今日の主役は、頼朝より前の時代では一番有名なあの人です。

延暦十六年(797年)の11月5日、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷大将軍に任命されました。
どこまでが姓なのか一瞬わからないお人ですが、「の」が入っている通り「坂上」が姓で「田村麻呂」が名前です。

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photo by 溫暖魚

初の征夷大将軍ではなく2番目だった!1番目の人カワイソス

貴族っぽい名前の割に画数が少ない字が並んでいるので、歴史の授業で暗記させられる人の名前にしてはわりかし覚えやすいですよね。
「そういえば聞き覚えあるな」という方もいらっしゃるのではないでしょうか。
というのも、かつての教科書では彼が初の征夷大将軍と言われていたのですが、その後の研究の結果、どうも2人目っぽいということで、なんとなくなあなあになっています。(ちなみに初は大伴弟麻呂という人で彼が征夷大将軍のとき田村麻呂は副将軍でした)

田村麻呂はもちろん貴族階級の出身なのですが、渡来人の末裔とうこともあってか、いろいろと「らしくない」様子が伝わっています。
坂上氏自体が武門の家柄なので、トーチャンの苅田麻呂(かりたまろ)からして超働き者。
朝廷に対する反乱が起きるたびに鎮圧に出かけ、あの称徳天皇と道教のゴタゴタのときも皇室を守り、一度は「お前も反乱起こしたヤツの仲間だろ!」的な因縁をつけられて解任されるものの、その年のうちに復職したというのですからよほど信頼されていたのでしょうね。

トーチャンがそんな人ですから、息子の田村麻呂も当初から期待の目で見られていたことでしょう。
折りしも同時期には蝦夷(えみし・この時代にいた東北地方の人たち。アイヌとは別物)との衝突が頻繁に起きており、延暦八年(789年)には紀古佐美(きのこさみ)という田村麻呂の先達にあたる人が大敗していました。
「こりゃ本腰入れてどげんかせんといかん」と考えた朝廷は、次に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)という人(初の征夷大将軍と見られている)を蝦夷討伐へ差し向けます。
このとき田村麻呂は四人の副将の一人として選ばれました。
主将で将軍の弟麻呂よりも先に「副将の田村麻呂が活躍したよ!」と記録されるほど活躍したようです。

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38歳で大将軍ってかなりの出世街道

その甲斐あってか、さらに延暦十五年(796年)には陸奥(現在の福島、宮城、岩手)に関する役職をいくつも兼任した上で、翌年征夷大将軍にまで任じられます。
ときに田村麻呂は38歳。
23歳で初任官、38歳で一軍を任されるって、この時代にしても現代にしてもありえないほどのスピード出世ぶりです。
それほど優秀だったんでしょうね。

田村麻呂はその期待に応え、延暦二十一年(802年)には先輩達を手こずらせてきた蝦夷のリーダー・アテルイとモレの降伏を受け入れて、京都まで護送しています。
彼は「降ってきたんだから、命だけは助けてやりましょうよ」という意見だったのですが、さんざん辛酸を舐めさせられてきた貴族たちは「コイツらのためにいくら使って何人死んだと思ってんだよ!処刑するに決まってんだろJK!!」というわけで聞く耳を持ちませんでした。
そもそも征夷大将軍という役職名自体「夷」=「東夷」=「東のほうにいる野蛮人」を征討するという意味がありますから、「オメー自分の仕事の意味わかってんのか!」なんて気持ちもあったのかもしれません。

中央政府の管理が行き届かないところの人間を野蛮人=討伐対象としているあたり、この時代はまだまだ中国諸王朝からの影響が強かったことがうかがえます。遣唐使真っ盛りの時期ですし。
もっとも、蝦夷を含めた関東以北・ひいては北海道が完全に日本の内に入るのは明治時代になってからなんですけどね。
が、約束と違ってリーダーが処刑されたもんだから、蝦夷の人々はやる気満々だったようで、延暦二十三年(804年)には再び討伐を命じられました。

しかし藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)という人が「そろそろ乱暴なことするのやめません?軍動かすと税もいっぱい取り立てなくちゃいけませんし、民が大変ですよ」と桓武天皇に奏上し、天皇もこれを容れたため、田村麻呂が三回目の討伐に行くことはありませんでした。
この緒嗣という人は根っから平和主義者だったのか、それともただ単にケチだったのか、その後東北の地方官へ任命された後も、「いやいや穏便に行きましょう。皆話せばわかってくれますって」というように軍を動かすことなく東北を治めることに専念しています。
穏やか過ぎて、藤原家の中でも彼の血筋(藤原式家)は権力の中枢に立つことができなかったんですが、庶民派だったってことですかね。

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京都の清水寺を創建したのはこのお方だった

さて、話は田村麻呂に戻ります。
三度目の遠征はキャンセルになったとはいえ、田村麻呂はまだ四十代。
当時の平均寿命的にはそろそろ引退でもおかしくはない年代ですが、何せこの時代に身長170cmを超えていたとか胸の厚みが36cmあったとか言われている人ですから、まだまだ元気だったことでしょう。アンタ本当に貴族か?
頭もキレる人だったようで、参議、中納言、大納言と順調に出世していきました。

この頃京都の清水寺や富士山本宮浅間大社を創建したといわれています。
武人とはいえ猪武者ではない田村麻呂ですから、もしかしたらアテルイやモレの鎮魂の意味もあったかもしれませんね。
教科書で初めて出てくる日本の将軍は、文武両道のスゴイお人だったのでした。

台風一過の翌日の清水寺ツイートより

田村麻呂が創建した清水寺

その後は父親と同じく朝廷の政争に巻き込まれたりもしたものの、弘仁二年(811年)54歳のときに病気で亡くなります。
嵯峨天皇は悲しみのあまり丸一日政務を取ることができず、彼を称える漢詩を作ってその死を惜しんだそうです。
……仕事はできないのに詩は詠めるってどういうことなのとか言っちゃいけません。麗しい主従愛ですよきっと。

長月七紀・記

参考

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Wikipedia:坂上田村麻呂




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