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その日、歴史が動いた ロシア

大津事件で日露関係が悪化しなかったのはロシア皇太子(ニコライ2世)が日本びいきだったから?

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エライ人というと「お金持ちでやりたいことは何でもできて、威張り散らしている人」と思いがちですよね。中世まではおそらくそういうタイプのほうが多かったのでしょうけども、時代が進むにつれてそうもいかなくなってきます。

市民のほうに道徳心その他が芽生えてくると、上に立つ人間の評価がより細かくなってくるからです。平たく言えば「尊敬できないヤツはエラくもなんともない」というわけですね。

欧米圏の「貴い身分のものほどいざというときは矢面に立たなくてはいけない」とするノブレス・オブリージュや、ことわざの「実るほど頭を垂れる稲穂かな」なんて言葉は、こうしたことから生まれたものなのかもしれません。

しかも、直接本人の責任が及ばないところから災いが降ってくることもあるのですから、もしかすると一般庶民よりも努力が実りづらい人々ということもできそうです。
本日はその最悪の例である、二つの暗殺(未遂)事件を見ていきたいと思います。

【TOP画像】ニコライ2世の治世においてロシアで完成した「血の上の救世主教会」

 

日本LOVELOVEなニコライ二世さん

明治二十四年(1891年)の5月11日は、大津事件のあった日です。

最重要ではないにしろ、歴史の教科書には必ず載っているかと思いますので、聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。
ものすごく端折っていうと「ロシアの皇太子が大津(現・滋賀県大津市)で暗殺未遂に遭った」という事件です。

ニコライ二世

このときのロシア皇太子は、後々ロシア帝国のラストエンペラーになるニコライ2世(ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ)。ややこしいのでこちらのお名前で以下統一しますね。
いわば要人中の要人で、もし世が世であれば犯人はもちろん、警備の人間がまるっと処刑されてもおかしくはないほどの事件でした。

しかし、実際には犯人ですら無期懲役で済み、知事と警備担当者の罷免はもちろんですが、あとは大臣が3人ほど辞職するだけで終わっています。この辞職した中に先日ご紹介した西郷従道もいたりして。
コトの大きさを考えればやたらと甘い処分ですが、これは当の被害者が異様なほど寛容な発言をしたからでした。

ニコライ2世は日本に来てみて風物をすっかり気に入ってしまったらしく、お忍びで長崎を見物して歩いたり、竜の刺青を入れたりと「一国の皇太子がそれでいいのかアンタ」とツッコミたくなるほど日本びいきになっていたのです。
竜ってキリスト教圏だと悪魔の象徴だった気がするんですけど、ロシア正教だとまた何か違うんでしょうか。ドラゴンと東洋の竜だと別物扱いってことですかね?教えてエ□い人。

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明治天皇自ら見舞いに出かけ帰国前には晩餐会

明治天皇御自らお見舞いに行ったこともかなり効果がありました。
事件の後ニコライ2世は京都にいたのですが、明治天皇は報告を受けると即座に向かい、直接お詫びされたそうです。

ニコライ2世もこれには納得してくれ、「軽傷で済みましたし、陛下や日本人の厚情に感謝していることは変わりません」、「どこの国にも愚か者はいるのですから」と穏やかに済ませてくれました。

本当はこの後、東京を訪問する予定だったのですが、ロシア本国から「怪我したんだから無理せず帰ってきなさい」という指示が出て中止になってしまっています。

その代わりに帰国直前の船上で明治天皇を招いた晩餐会をしてくれているので、当時の皇帝やロシア政府からの印象も「国のトップが謝ってくれてんのに、ゴタゴタぬかすのは大人気ないだろ」という感じだったようです。日本は皇族を謝罪使節としてロシアに派遣することも決めましたがロシアが「いいよ、気にしないで」とここでも寛容さを表明。やさしいな。

本国が激おこスティック(ry)だったら、極端な話ここで日露戦争が始まっていたかもしれません。その場合ボロ負けしてたかもっすね・・・gkbr

この頃は、ある意味、日露関係が最も良かった時期ともいえそうです。こんな物騒な事件で友好関係を証明されてしまうというのは、何とも後味が悪い話ですが。

ついでに言うと、急激に悪化したのは日清戦争後のいわゆる”三国干渉”でロシア・ドイツ・フランスが日本にアレコレ言ってきたからであって、ニコライ2世や明治天皇の個人的な感情による部分は少ないと思われます。多分。

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犯行の理由は「ロシアの態度がムカついたから」

さて、日本側では速やかに犯人を処分することを確約したものの、現実問題としてどうするのかは一時難航しました。当時の日本には、外国の要人を襲った者に対する処罰が定められていなかったためです。

政府の中でも「わが国の皇族へ不敬をはたらいた者と同等(死刑)にすべき!」という人と、「ヨーロッパでは他国の王族と自国の王族を同列扱いにしてないから、死刑は不要」と考える人に分かれました。

結局は後者の意見にまとまり、犯人は無期懲役になっています。

ちなみに犯行の理由は「ロシアの態度がムカついたから」「一太刀報いたかったから」「お忍び?つまり忍者=日本の地形を探りに来たスパイ」(意訳)というネトウヨ的な程度のもので、コロしたいほどロシアやその皇族が憎かったというわけではないようです。

……それをやった結果国際関係がどうなるかとかは考えなかったんですかね。

サラエボ事件の場合は?

ここで「他国の要人襲撃事件」としてもう一つ例を挙げてみましょう。1914年(大正三年)のオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント襲撃事件です。

事件の起きた都市の名を取って”サラエボ事件”と呼ばれていますね。第一次大戦のきっかけになったこともあり、こちらをご記憶の方のほうが多いでしょうか。
同じ”皇太子”という身分に害が及んだにもかかわらず、なぜこれほどの差が出たのでしょう?

主な理由は二つ考えられます。

一つめは、事件の当事者二国がもともとどのような関係にあったかということです。

当時の日露関係は上記の通り比較的友好でしたが、オーストリアと事件の起きたボスニア・ヘルツェゴビナ(当時)は真逆=最悪に近い状態でした。

前者が「人種も文化も違うけどそういえばご近所さんだったね。できれば仲良くしようぜ」(超訳)という流れだったのに対し、後者は「オーストリア皇太子だか何だか知らないけど、アンタらのやってることはムカつくんだよ!ブッコロ!!」(同じく超訳)な雰囲気だったので、そもそも犯人の殺意が違います。

フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ

 

夫妻揃って殺されてしまったゆえに・・・

もう一つは、何といっても被害者の状態です。

ニコライ2世も後遺症が残るほどの傷を頭に受けたものの、本人が「軽傷」と言ってくれたのでその後いろいろと穏やかな方向で話を進めることができました。

しかし、フランツ皇太子の場合はご夫婦揃ってその場(正確には搬送先)で亡くなってしまっていますから、ご本人たちの意思云々が全く考慮されずにあそこまでなだれ込んでしまったわけです。
フランツ皇太子自身がその地位につくまでいろいろあった人なので、他の事情もありますがその辺の話はまた改めてしましょう。

この辺の時代は激動過ぎて「暗記第一!」がさらに強まりやすいところですが、こうした視点で見てみるのも結構興味深いものです。
「戦争の原因になった・ならなかった事件」とかでどなたか本を書かれてませんかね。

長月七紀・記

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サラエボ事件については「第一次世界大戦の原因となったオーストリア皇太子と松平容保の意外な接点」「なんと! タイタニックのせいで第一次世界大戦が勃発した!?のかも 【第一次世界大戦100年Vol.7】」もどうぞ。
参考:
大津事件(wikipedia)
フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エス(wikipedia)




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