二の丸騒動

二の丸騒動の舞台となった高島城

江戸時代

諏訪藩「二の丸騒動」は現代にも通じるブルシット騒動|無能すぎる家臣と主君

2025/07/03

天明三年(1783年)7月3日は、諏訪藩の家老・諏訪頼保(よりやす)が切腹した日です。

諏訪藩のお家騒動である【二の丸騒動】当事者の一人。

お家騒動というと、跡継ぎ候補と、それぞれ派閥を組んだ家臣団のトラブルをイメージをしがちですよね。

しかし今回の場合は

・嫉妬心だけは人一倍の悪辣家臣→諏訪頼保

・無能すぎる殿様→諏訪忠厚

が揃ってしまったために起きた、本当に”騒動”という感じのドタバタ劇。

現代の会社や組織でも実はよく起きていることかもしれない、ムカッとする話ですが、最終的にはスカッとする(かもしれない)。

そんな二の丸騒動の顛末を振り返ってみましょう。

※大河ドラマ『べらぼう』で宮沢氷魚さん演じる田沼意知が、矢本悠馬さん演じる佐野政言に斬られて亡くなるのが天明4年(1784年)ですので、その前年にも切腹沙汰の事件が起きていたんですね

 


諏訪氏とは?

諏訪藩主の諏訪氏は、少年マンガ『逃げ上手の若君』の前半で目立ちまくっていた諏訪大社の大祝(おおはふり・同社のトップ)・諏訪頼重の子孫にあたる家です。

諏訪氏は【中先代の乱】で北条氏の生き残り・北条時行に味方して敗北。

室町時代初期の非常に厳しい時期をどうにか生き延びながら、続く戦国時代でもかなりキツい局面に立たされます。

隣国の甲斐武田氏に攻められ、当主の諏訪頼重(同名の別人)が滅ぼされてしまったのです。

その娘・諏訪御料人が武田信玄の側室となり、

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

武田 勝頼を産んだのはよく知られた話ですね。

その後も織田 信長(総大将は織田 信忠)による武田征伐の際に諏訪大社を焼かれるなど、散々な目に遭ってきました。

諏訪大社の主祭神・タケミナカタも国譲り神話でタケミカヅチと取っ組み合いをして負けたがために大人しくせざるを得なくなった……とされていますので、御祭神と同じような経緯を辿っていたんですね。

しかし【本能寺の変】で状況は一変。

信濃と甲斐の諸勢力が混乱に巻き込まれる最中、徳川 家康に従うと、江戸時代には地位を認められて諏訪藩(高島藩)主となりました。

なお、本拠の高島城は諏訪湖の畔、諏訪大社の上社・下社の中間のような位置にあります。

 


二の丸騒動の背景

二の丸騒動が起きたときの藩主は六代・諏訪忠厚です。

騒動に至る遠因が少し前の時代にありますので、そこから確認しておきますと、約半世紀前、忠厚の祖父に諏訪頼篤(よりあつ)という人がいました。

頼篤は諏訪氏の一族ではありますが、いわゆる分家筋。

もともとは大名ではなく江戸で旗本をやっていました。

小姓組頭や江戸北町奉行を歴任した頼篤は、最終的に1,500石取りという中々の出世を果たし、92歳で大往生を遂げています。

文字通り「地味にコツコツ」やって大成したタイプですね。

この諏訪頼篤の次男が諏訪忠林(ただとき)といい、当時の諏訪藩主・諏訪忠虎の実子が早世したため、18歳のときに忠林が諏訪藩主家に養子入りして跡継ぎとなりました。

忠林は生来病弱で、養子になった後は、領内の政治より学問をやりたがるタイプの人でした。

なぜ、もっと早い段階から、こうした適性を見極めなかったのか。

忠林が養子になって忠虎が亡くなるまで10年もの月日があり、その間に藩主としての心得を教育するとか、しっかりした家臣をつけるとか、色々と方法はあったはずです。

忠虎も学者肌だったらしいので、「これでよし」と思ってしまったのでしょうか。

同時期に、江戸藩邸が焼失したり、元禄大地震で藩の財政が苦しくなっていたため、養子の教育に目が行き届かなかったなんてことは……。

ともかく享保十六年(1731年)に忠林が諏訪藩主となり、宝暦十三年(1763年)にその後を継いだのが二の丸騒動の当事者となる諏訪忠厚でした。

 

家老の対立

諏訪忠厚は、当初から政治に無関心な人物でした。

実務のほとんどを筆頭家老・千野貞亮(ちの さだすけ)が行っていたとされます。

千野家は、別名を「三の丸家」ともいい、鎌倉時代から諏訪氏に仕えてきた文字通り譜代の臣。

貞亮もその誇りにかけて、知恵を絞って働いていたのでしょう。

生糸や繭に重税を課し、財政もほんの少しだけ向上しました。

しかし、貞亮が実績を上げたことを、諏訪氏の流れを引くもう一人の家老・諏訪頼保(よりやす)は懸念していました。

こちらは「二の丸家」と呼ばれていた家柄で、三の丸家とは知行も同じで、まさに双璧といった立ち位置。

だからこそ余計にライバル意識があったのでしょう。

騒動の名称は、この“二の丸家”からきています。

貞亮が実績を作ったことに対し、頼保は「このままでは、藩政を千野家に牛耳られてしまう」と、ズレた危機感を抱くのです。

それなら頼保も何か策を講じて、藩財政がちょっとでも良くなるように働いて認めてもらえばいいはずなのですが、そうならないのがお家騒動というものですね。

本当に「おまえもか!」とツッコミたくなるぐらい、後ろ向きな理由から起きているお家騒動だらけ。

まぁ、現代社会でも、無能な会社員ほどゴマすりと社内政治力を駆使しがちというのは、人間の本性かもしれませんね。

むろん、出来るリーダーが上に立てばそんなことないのでしょうが……ともかく頼保は、貞亮を陥れるため一計を案じるのです。

 


忠厚、何の調べもせず讒言をあっさり信じ……

千野貞亮の頑張りに対し、お門違いな嫉妬の炎を燃やす諏訪頼保は、一体何をしたのか?

まず頼保は、諏訪藩の江戸屋敷で仕えている渡辺助左衛門という人物に近づきました。

助左衛門は諏訪忠厚のお気に入りだったので、搦め手から行こうとしたわけです。

助左衛門を通して、頼保は藩主・忠厚へデタラメを吹き込みました。

「貞亮のかけた重税のおかげで、民は一揆を起こしかねないほど貞亮を恨んでいる」

確かに重税をかければ領民が苦しくなるのは当たり前ですし、恨みを買ってもいたのでしょう。

しかし、この件でマズイのは、忠厚がろくに調べもせず、頼保の讒言をあっさり信じて貞亮を罷免→閉門にしてしまったことです。

「閉門」とは謹慎と似た感じの刑罰で、”昼夜ともに自邸からの外出を許さない”というものでした。

貞亮からすれば、とにかくワケがわからなかったでしょう。

しかも忠厚は、頼保を筆頭家老にするだけでなく、更に150石のボーナスまであげてしまうのですからどうしようもありません。

これで忠厚が善政を敷き、民に感謝され、財政再建にも成功した……ならば良かったのですが、元々能力もないのに嫉妬だけで貞亮を引きずり下ろしたので、政治がうまくいくわけがありません。

そもそも本人にも良い政治をしようとする意志はなく、賄賂をくれる者を引き立て、自分は酒池肉林に励むなど、ろくでもない生活を送りはじめます。

苛政だったとはいえ、真面目に仕事をしていた貞亮が、これで黙っているわけがありません。

貞亮は閉門を破り、江戸に滞在中の忠厚へ、頼保のウソにまみれた言動の真相を訴えました。

これにはさすがの忠厚も激怒し、頼保をクビにして閉門処分にします。

 

今度は主君の跡継ぎ問題に首を突っ込み

これで反省するだろうか?

と思いきや、再び逆恨みするのが頼保という人間でした。

今度は主君の跡継ぎ問題に首を突っ込もうと画策します。

大名のお家事情によくある話で、諏訪忠厚は正室・阿部氏(福山藩主・阿部正福の娘)との間に男子がなく、側室二人との間に一人ずつ男子がいました。

長男の軍次郎は側室木村氏、次男の鶴蔵は側室北川氏の生まれで、腹違いの兄弟です。

木村氏は元々阿部氏の腰元だったので、阿部氏は軍次郎を可愛がり、後継者にしたいと考えていました。

軍次郎本人も幼い頃から聡明だったそうですので、次期藩主にふさわしいと思ったのでしょう。

一方、忠厚は北川氏が産んだ次男・鶴蔵を後継者にしたがっていました。

頼保はこの状況につけこみ、

「軍次郎を廃嫡して鶴蔵を跡継ぎに確定させ、第一の功臣になろう!」

と考えたのです。

他人を巻き込む才能だけは一級品と言えるのでしょうか。何か別の世界なら、その能力を活かせたかもしれません。

 

またも讒言を鵜呑みにする忠厚

一方、千野貞亮は、当時の常識的にも「家督は長男が継ぐべき」と考えていました。

そもそも主家の家督に家臣が口を出すべきではないという思いもあり、忠厚を止めようとします。

しかし、鶴蔵派の諏訪大助という者が

「このついでに千野貞亮を失脚させてやろう」

と考え、天明元年(1781年)に忠厚へ讒言し、貞亮を罷免・押込(おしこめ)にします……って、忠厚は本当に学ばない人だな!

「押込」は昼夜の出入りを禁じる+外部との通信(手紙のやり取りなど)を禁じるという刑です。

閉門よりも重く感じますが、実際にはもっと軽い扱いだったこともあるので、刑罰名だけでは判断が難しいところ。

さらに忠厚の正室・阿部氏を離縁させるという手回しぶりです。

ちょうど忠厚も子供を産まない正室にイライラしていたので、これもあっさり言われた通りにしてしまいます。

正室にとっては、ダメダメな夫と別れられてよかったかもしれません。

しかし、貞亮にしてみれば、たまったもんじゃありません。

何処かへ出奔するわけにもいかず、悲壮の覚悟で決意します。

斬罪を覚悟の上で江戸に向かうことにしたのです。

 

貞亮の反撃

貞亮は、諏訪忠厚の妹婿であり、「奏者番」というお偉いさんだった松平乗寛(のりひろ)へ訴えることとしました。

奏者番自体も大名と幕府との間で礼儀作法を教えたり、日頃から何かと連絡を受け持つことが多かったので、頼りやすかったのでしょう。

乗寛は「これを幕閣に知らせれば、諏訪家は改易になってしまう」と考え、義兄である忠厚の説得に乗り出してくれました。

そして忠厚の隠居と長男・軍次郎の元服及び家督継承を取り付け、なんとか改易を回避します。

ときの老中・田沼意次にも話は通っていたようです。

田沼意次/wikipediaより引用

現代の我々からすると「こんなダメダメな家、改易でもいいじゃん」と思ってしまいますね。

しかし江戸時代でもこのくらいの時期になってくると、そう簡単に潰すことはできません。

なぜなら新たな領主を選ぶ手間や、領民の慰撫など、とにかくコストがかかるためです。

かといって幕府の直轄地にしてしまうのも難しい。

度重なる天災や飢饉、そして火災などで、どこの藩も家もボロボロでしたので、まともな人物に世代交代させて、政治改革に勤しむほうが確実なわけです。

そして、事の発端である頼保派には切腹や斬首という重い処分を下し、ようやく騒動は終結。

貞亮は無事に元の家老職へと戻り、七代藩主・諏訪忠粛(ただかた)にも信任されてバリバリ働いていきます。

そして諏訪藩は

・用水堰開発

・郷村財政整備

・藩校「長善館」の設立

・藩医に長崎留学を命じる

などの諸改革に取り組みました。

 

その後は安泰に

忠粛の子・諏訪忠恕(ただみち)も、父の薫陶を受けて内政や養蚕業奨励などを行い、成功を収めました。

しかし、藩内の凶作や江戸藩邸の焼失等により成功がチャラになってしまい、またしても財政が悪化。

諏訪藩で数少ない百姓一揆が起きてしまったために、あまり評価は高くありません。

本人は悪くないので、ちょっとかわいそうですね。

忠恕の子・諏訪忠誠(ただまさ)は、外祖父があの松平定信。

松平定信/wikipediaより引用

若い頃の忠誠を見て、定信は「将来有望な若者」といった印象を抱いたとか。

幕末にはいろいろありましたが、無事に諏訪家を存続させ、明治時代には子爵を授かっています。

その後の子孫がマシなだけに、なんで六代・諏訪忠厚だけがあれだけ無能だったのか、理解に苦しみますね。

一行でまとめるとすれば

「分不相応な人が野心を抱いたり、極端に高い地位についたりすると、ロクなことがない」

ということでしょうか。


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【参考】
中江克己『江戸三〇〇年 あの大名たちの顛末』(→amazon
『江戸大名 (知れば知るほど)』(→amazon
国史大辞典
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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