寛政七年(1795年)7月8日は、清水徳川家の初代当主・徳川重好(しげよし)が亡くなった日です。
清水徳川家は「御三卿」の一角となる家ですが、他の二家(田安家・一橋家)と比べて、ある特徴を持っています。
それは唯一、将軍を輩出できなかった……という、あまり名誉な特徴ではないのですが……。
ともかく重好の生涯から見ていきましょう。
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田安家と一橋家に続くもう一つの分家
徳川重好は、九代将軍・徳川家重の次男です。
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十代将軍となった徳川家治が特に問題なく育ったので、次男としては早くに行き先を決めなくてはなりません。
といっても、徳川宗家の人間が、特に問題もなく出家するのも外聞や威厳に関わります。
そこで家重は「そうだ、父上の真似をしよう」と思い立ちます。
「真似」というのは他でもありません。
江戸城のすぐ側に住む親戚として、田安家・一橋家の他にもう一つ分家を作ることでした。
江戸時代の大名家では、いつどんな理由で跡継ぎがいなくなるかわかりません。
戦がなくても、天災や病気、あるいは「不慮の事故」で男子が亡くなることも珍しくない。
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そのため、できるだけ近い血筋の親戚は不可欠だったのです。
もっとも、その親戚がゴタゴタの元になったりもしますので、諸刃の剣でもありましたが。
家も血筋も近く仲も良かった家治と重好
「善は急げ」とばかりに家重は、14歳で徳川重好を元服させ、早々に清水家の当主として外に出してしまいます。
といっても屋敷の位置が江戸城清水門の内側、わかりやすく言うと日本武道館の付近で、本丸(現在の皇居東御苑)から歩いて15分もかかりません。
家格は御三家の次とされ、石高も最初から10万石。
三年後、さらに10万石を加増されており、将軍の弟としては申し分ない立場といえるでしょう。
家も近けりゃ、血筋も近い。ということで、兄・家治や、家治正室・倫子女王もたびたび清水家の屋敷を訪れています。
徳川家……というか武家には珍しい、仲の良い家族だったのでしょうね。
家治は祖父の徳川吉宗から寵愛されて育ったので、正室を始め、他者に親愛を抱き、それを露わにすることが多かったように思えます。やっぱり小さいときの環境って影響するのでしょう。
一方の重好は、一族の中では年少だったため、政争では年長者に押し負けるようになっていきます。
特に、家治の長子・家基が亡くなったとき、一橋家の豊千代(後の十一代将軍・徳川家斉)が家治の養子になってからは顕著でした。
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武家では、兄弟の順に家督を継承したり、弟が兄の養子になることも珍しくありません。
そこを押し切ったのは、豊千代の父・徳川治済でした。
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チャンスさえあれば将軍になれる
治済は一橋家の初代当主であり、吉宗の三男・徳川宗尹の息子です。
話は、8代将軍吉宗→9代家重の引き継ぎ時まで遡るのですが……。
当時、家重は身体的障害のため家督継承が難しいと思われておりました。
そのため「九代将軍は吉宗長男・家重ではなく次男の徳川宗武に――」という噂が立っており、その声があまりにも大きかったので、宗武はてっきり自分が将軍になるものと思い込みます。
しかし吉宗は、あくまで長幼の順を重んじ、家重を将軍にしました。
それをなだめる意味もあって、次男・宗武と三男・宗尹を、家の外に出したわけです。
それが後に御三卿となるんですね。
御三卿ですから「チャンスさえあれば将軍になれる」という立場。宗武や宗尹は、息子たちが将軍に就くよう焚き付けることになりました。
宗武は、公然と兄の将軍就任を批難して吉宗に怒られたことがありますし、宗尹は芸術や菓子作りを愛するおとなしい面と、鷹狩を熱狂的に好むという危うい性質を持ち合わせていました。
そんな状況を間近で見たであろう治済が、野心を抱かないわけがありません。
しかし、他に徳川の血を引く男子がたくさんいる中で、家重の嫡男・家治よりも年上の自分が将軍に就くのはほぼ不可能。
となると、息子を傀儡にして実権を握る……というのが一番やりやすくて現実的なわけです。
重好は、その煽りをくらった形になりますね。
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