長元七年(1034年)7月18日は、後三条天皇が誕生した日。
この天皇の誕生は、当時の皇室にとって画期的な存在となってゆきます。
源平時代までの朝廷というと、どうしても藤原摂関家(藤原道長たち)のイメージが強いですよね。
姫が生まれる度に皇室へ嫁がせ、誰が皇位に就いたとしても、摂関家が外戚として口と手を出せる――いわゆる摂関政治の時代が170年ほど続いていました。
後三条天皇は、その流れを断ち切った人なのです。
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後三条天皇 父も母も道長の外孫なれど
後三条天皇の父は後朱雀天皇(藤原彰子と一条天皇の皇子)で、母は禎子内親王でした。
後朱雀天皇は道長の外孫であり、実は母の禎子内親王も同じく道長の外孫です。
母が道長次女の藤原妍子(けんし/きよこ)だったのです。
しかし、後三条天皇が生まれた頃は、既に道長が亡くなっていました。
さらに後朱雀天皇の第二皇子として生まれた後三条天皇は、本来であれば、皇位に就かない可能性もある立ち位置です。
ところがです。
異母兄・後冷泉天皇の皇子が生まれた直後に亡くなってしまい、その後も男子に恵まれないまま後冷泉天皇が崩御したため、後三条天皇が即位することになったのです。
しかも、です。
母・禎子内親王と、ときの関白である藤原頼通、そしてその弟である教通との仲が険悪だったため、後三条天皇はそれまでと違った政治的関係を築くことになりました。
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摂関家の独裁色を払拭
注目は、藤原頼通や藤原教通の異母弟で、道長と源明子の息子である藤原能信(よしのぶ)です。
彼は、母方の祖父(源高明)が事件に巻き込まれて失脚した後に、母が道長の妻とされたため、嫡妻(源倫子)の子である頼通らと明確な差をつけられていました。
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しかし、能信自身は、公然と道長や頼通に逆らう気概の持ち主。
そのため禎子内親王や、即位前の後三条天皇に同情し、庇護していたのです。
残念ながら、能信自身は後三条天皇の即位前に亡くなってしまいましたが、後三条天皇はその恩を忘れず、能信の養子・藤原能長(ふじわらのよしなが)を取り立てます。
当時はまだ後三条天皇の祖父・一条天皇の中宮だった藤原彰子(上東門院)が存命中だったため、彼女の意向を容れて、教通を関白にしてはいます。
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その一方で村上源氏や、学者の大江匡房(おおえのまさふさ)・藤原実政(ふじわらのさねまさ)など、今まで政治の中枢にはいなかった人々を多く登用しました。
後三条天皇自身も積極的に親政を行い、摂関家の独裁色を払拭するため奮闘していくのです。
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摂関家に集中していた荘園を分散させた
また、摂関家に気兼ねして、東宮時代には冷遇してきた相手についても、恨みをぶつけずに接しました。
自分の親族である歴代の天皇が摂関家によっていいように使われたからこそ、自分はえこひいきをしないように努めたのでしょうか。
こうして政治方針と側近を整えた後三条天皇は、桓武天皇をお手本として、さまざまな政治改革を行いました。
荘園の整理を行ったり、経済に関わる法律を多く定めたり、朝廷の収入が安定するよう努めたのです。
同政策は、うまくいきました。
これまで摂関家に集中していた荘園が他の人に回るようになり、多くの公家や農民の収入が良くなったのです。
「摂関家以外を潤わせることによって、結果的に朝廷のお財布も豊かになった」
そんな風に見ても良いかもしれません。
一方、こうした動きに対し、摂関家はどのような対策を取ってきたのか?
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