戦国武将の評価がころころ変わる

最上義光像

最上家

戦国武将の評価はなぜコロコロ変わる?特に鮭様が乱高下しすぎな件

歴史とは完結したもの。

過去を取り扱うのだから「不変である」と思われがちです。

しかし、現実は違います。

歴史研究や創作物によって、同じ人物や事件でも、評価がガラリと変わることは多々ありまして。

例えば、豊臣秀吉像をとってみても、時代によって人々の願望が反映され、変化していることがわかります。

※以下は秀吉の関連記事となります

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それは人気ゲームの制作姿勢からもハッキリと窺えます。

◆【TGS2017】『信長の野望・大志』インタビュー、奥深いシミュレーションはそのままに、「志」で武将の人間らしさを追求(→link

―――大河ドラマや漫画、アニメなどで戦国ものが多く扱われていますが、そういった他のメディアで定着したイメージからの影響はあるのでしょうか?

木股:影響はありますね。常に新しい知識で、新しい武将の一面をみせることができたらなと。史実で新しい発見があったらどんどん取り入れていきたいと思っています。良い例が今川義元ですね。昔は信長に討たれた中途半端なイメージでしたが、研究が進み再評価がなされ、『信長の野望』でも地位があがっていきました。

また、これまで義理が低いと言われていきた最上義光も謀略は使うけどそれよりも自分の武勇を誇るというか。当時の評価も勇気があって力があって…という感じで。今回は「志」を含めそういった評価についても追及しているところです。

―――史実を再評価しつつ、ゲームとしての面白さも考えて能力を振り分けていくと。

このインタビューで評価が変わったとして挙げられていた今川義元と最上義光(よしあき)。

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義元は大河ドラマ『麒麟がくる』で注目され、一方の最上義光も数年前からジワジワと復権が始まっています。

例えば以前は顔グラフィックも陰険そうな烏帽子姿だったのが、2013年発売の『信長の野望 創造』では鉄棒を構えたマッチョ系の姿に変化しました。

紹介文からも「密約外交」といった文字が消えました。

今回は、戦国武将の中でも、評価が変化した人物の代表とも言える最上義光に注目。

その変遷を辿ってみましょう。

 


戦国〜江戸時代:最上百万石の残照

最上義光は、伊達政宗や小野寺義道からすれば憎たらしい存在でした。

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伊達政宗は「あいつは裏表がある男として周辺諸国でも知られている」と書き残しています。

それを言うならば戦国武将とはそういうものであり、伊達政宗自身にだって裏表はあります。敵対者に嫌われているから邪悪な男だ、とは言い切れません。

では、家臣領民に対してはどうであったのでしょうか。

実は義光は、寛大な人物として知られております。

彼の死後、義光は最上家を再興させた名君として伝説的に語られるようになっております。

軍記物では「智・仁・勇」を兼ね備え、鉄棒を振り回して戦う勇将として描かれて来ました。

最上家と敵対した伊達家や上杉家の記録において好意的に記述されないことは仕方ないとはいえ、それでも義光はあくまで「近隣の手強い敵」であって、ただの梟雄ではなかったのです。

江戸時代を通して山形藩は、多くの領主が入れ替わりました。

変わりゆく町の中で、人々は「最上百万石」時代を惜しみました。

義光の時代は山形全盛期であり、栄光の中にあるもの。江戸期の義光像は「伝説の名君」であったのです。

 


昭和戦前:グレートマン義光

明治維新を迎えたあと、人々は欧米列強の諸国に対し、我らも遅れまい!と願うようになりました。

西洋にフリードリヒ大王やナポレオンがいるのならば、日本にも名将がいたはずだ――と、各地で偉人の顕彰が進んでいきます。

そんな中、山形の人々が崇拝の対象としたのが最上義光でした。

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義光は、山形中興の祖であるとして顕彰されるようになり、山形市にはかく語られるようになります。

国民に尚武の気風が貧弱であるうちは、到底列強各国との競争に対峙することなどできない。

であるからして、英雄崇拝が日本の国民性として意義があることは否定できない。

我等が山形中興の最上義光公は、この意味において最も崇拝すべきグレートマンであると同時に、山形市が今日において東北地方の一都市として雄を競うにたるのも、義光公の遺徳であるのは、言うまでもないことである。

江戸時代の末期、山形をおさめた水野氏は義光の慰霊祭を行っていました。近代以降、これを大々的に行うようになっていったのです。

夕暮れの庄内平野と最上川

義光没後三百年にあたる1913年(大正2年)は、特に大々的に行われました。

市内を最上時代の扮装をした市民が練り歩く楽しい祭りであったようです。

現在も、山形には義光祭を懐かしむ人がいるとか。

 


1940-60年代:消えた「義光祭」

しかし、戦後になると義光の評価は落ち始めます。

平和な世に生きる日本人にとって、血腥い英雄は尊敬するべきものではない、という研究者の意見がチラホラと出てきたのです。

このころの研究は一定の価値はありながら、全体的に否定的過ぎて、評価が消極的かつ個人的な“好悪”が入っているのではないか、と現代ではとらえられています。

戦時中に「義光祭」は中止していたものの、昭和22年(1947年)に復活。しかしその翌年には山形商工会議所と一部議員の間から見直しを求める声が出ました。

仮装行列が非文化的、低級であるとの意見も出たとか。義光祭の写真を見るとそうは思えないのですが、ともかくそういう意見が出ました。

義光祭は山形祭へ、そして現在の「花笠祭」に変わります。

さらには「周囲の国衆を攻め滅ぼし、豊臣秀吉や徳川家康にまでみっともない追従をして、それでも国の基礎すら整えられなかった梟雄の祭りなんていらん」という義光バッシングにまで発展したとか……。

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でもそれを言うならば、織豊期の戦国大名ほぼ全員がダメなんですが……?

正直ここまでの極論はイチャモンです。

「義光祭」から「花笠祭」に変更したのは、当時の山形の産業および観光のボス的な実業家が、「夏期観光の華やかな目玉」を作り出したかったからと言われています。

そしてこのボスが、徹底した義光嫌いだったのです。

1960-70年代において最上義光研究をリードしていた研究していた方が、個人的に義光嫌いであったようで(嫌いなのに研究したのか?とツッコミたくなりますが)、やたらと否定的な記述をしていました。

彼は「やたらと人を殺した義光なんで悪人」というトーンだったのです。それを言うのならば戦国武将どころか古今東西の英雄がほとんどアウト!でしょう。

しかし、彼の研究が当時最も権威があったため、他の研究者や作家まで影響を受けたとみられます。

さらにこの頃刊行された『山形市史』はじめ市町村史は、この研究者にならったのか、最上義光に批判的な記述が目立ちました。

読んだ人は「山形の最上義光って酷い男だなあ」と思うような内容であったのです。

「羽州の狐」という義光を形容する言葉も、1970年代から使用が見られるようになります。

この言葉は当時の研究者が主観で思いついたもので、歴史的根拠はありません。

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