中国史を代表する美女・楊貴妃(719-756年)。
彼女を死に追いやる大事件が【安史の乱(あんしのらん)】であり、世界史で習ったなぁという方もおられるかもしれません。
実はこの乱、単なる政変というには生易しく、一説には第一次世界大戦よりも死者数が多いのではないか?と考えられています。
なんせ、当時、世界の超大国であった唐が崩壊してしまったのですから、それはもう大変な戦乱となるもので。
乱を起こした首謀者は安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)。
本稿では、この安禄山に注目してみたいと思います。
※楊貴妃そのものの人生については以下の記事をご覧ください。
楊貴妃が愛する皇帝に殺されるまで 世界三大美女の一人に起きた悲劇
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羊泥棒から出世物語始まる
両親は誰なのか。
いつどうして生まれたのか。
安禄山の素性はハッキリしておりません。一説によるとゾクド人の血を引いていたとされます。
後に安禄山が「燕」の初代皇帝になると、母が光を浴びて懐妊しただの、伝説的な逸話が生まれます。
要するに、父親が誰かわからない、そういう出生ということですね。
若かりし頃の安禄山は、サマルカンドの市場で六カ国語を操るマルチリンガル通訳として生計を立てていました。
もしそのままなら、ただの通訳として人生を終えたかもしれませんが、転機は突如やってきます――。
732年、幽州節度使・張守珪の前に羊泥棒の容疑者が引き出されました。
「悪党め、撲殺しろ」
張守珪がそう命じたところ、すかさず男は叫び出します。
「殿下は異民族どもを滅ぼしたくはありませんか? オレにはうまい情報があるってのに殺すんですか?」
張守珪は男を殺すのをためらいました。
男の言う通り、異民族討伐には手を焼いていたからです。
ばかりか、あらためて男を見るとなかなかの風貌をしている。これは使えそうだ。
張守珪はそう確信し、部下に加えます。
それが安禄山。
出世街道の始まりでした。
努力とコネ作りの甲斐あって有力武将に
30歳手前まで市場で通訳をしていた男が、一体なぜ、そんな展開に?
どうしてなのか。理由は不明ですが、安禄山は張守珪の元で実力を発揮します。
とにかく強い、のです。
たった数騎で敵を蹴散らすような武勇っぷり。張守珪はすっかり安禄山を頼りにするようになります。
一方、安禄山も努力を惜しみませんでした。
張守珪がぽっちゃり体型を嫌いだと知った彼は、太りやすい体質であったことからダイエットを敢行し、スリムな体型を保ちます。
かくして張守珪が病死した後も、安禄山は順調に出世。
ところが当時はある程度まで実力で出世できても、そこから先には“コネ”という壁が立ちはだかります。
いよいよ安禄山の勢いも止まるかと思いきや、彼には人に取り入る才能もありました。
賄賂を送り、コネを掴んで、これまた順調に出世を重ねる日々。そしてついに得たのが節度使のポジションでした。
唐王朝における節度使といえば、花形の存在です。
地方ごとに置かれた軍を統括する役割であり、同時に行政権も持ったかなり大事な役職でした。ゆえに創設当初は、ふさわしい人格者が選ばれ、時代が下ると選定基準も変わります。
当時の宰相・李林甫は、18年という長きにわたり政治のトップに君臨することになります。
実力があったというよりは、巧みに玄宗皇帝に取り入り、政敵を蹴落とすことができたからです。
自分の権力が大事で仕方ない李林甫にとって、自らの地位を脅かしかねない人物を節度使に置くのは避けたいところ。
そこで、異民族出身から、あまり使えなさそうな人物を任命しようと考えます。
この考えに合致したのが、安禄山でした。
彼は十ある節度使のポストのうち、三つに任命されてしまいます。
異常事態です。
キレッキレのダンス 現代で言えばサモ・ハン・キンポー?
若い頃こそ英明な君主であった玄宗も、この頃スッカリ政治に飽きておりました。
そのため自分の権力ばかりに固執する李林甫や、楊貴妃の一族らが権勢を誇る、ロクでもない政治体制になっていたのです。
そこへ割り込んできたのが、安禄山です。
このころの安禄山はダイエットをやめて、かなりのぽっちゃり体型……を通り越して、200キロを越える巨漢になっていました。
その巨体でよたよた歩く姿が、なんとなくおかしいということで、楊貴妃はじめ女官たちには大ウケ。
「キャー、マジ受けるんですけど〜」ってな具合で笑われていたのでしょう。
安禄山が宮中にいるだけで笑いが起き、しかも彼には「胡旋舞」という特技もありました。
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