田中河内介

『高名像伝 : 近世遺勲. 天』(画:石田渓岳)の田中河内介(中)と明治天皇(右)大久保利通(左)/wikipediaより引用

幕末・維新

明治天皇の恩人・田中河内介の殺害事件は幕末薩摩で最大のタブーだった

京都を火の海にして、倒幕の挙兵をあげよう――。

そんなテロ行為を計画して、伏見の寺田屋に籠もった薩摩の過激藩士たち。

事前の説得むなしく、ついに凄惨な殺し合いとなった寺田屋事件(騒動)は、幕末薩摩藩における屈指の暗黒史と言えましょう。

※以下は寺田屋事件の関連記事となります

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このとき西郷隆盛(西郷吉之助は、田中河内介(かわちのすけ・本稿はこの名で統一)という人物の最期を聞き、こう嘆いたと伝わります。

「もう“勤王”の二文字を唱ゆっこたあでけん……」

なぜ、西郷はそんな風に嘆いたのか?

いったい何者なのか?

文久2年(1862年)5月1日に亡くなった、田中河内介の人生と最期を知れば、西郷が嘆いた意味が理解できます。

さっそく振り返ってみましょう。

 


天皇の問いかけに皆が凍り付く

明治時代初期、とある宴の席でのこと。

明治天皇は、ふと昔を思い出して言いました。

「田中河内介のことがしのばれる。あれがこの場にいたらよかったものを。殺されたと聞きおよんでいるが、一体誰がそのようなことをしたのであろうか」

その場の空気が、一瞬にして凍り付きました。

同席していた小河一敏が、ある者を指して言います。

小河一敏は明治14年(1881年)、宮内省御用掛に任ぜられます/wikipediaより引用

「田中河内介を殺したのは、この者でございます」

小河が指した先にいたのは、顔面蒼白となった大久保利通でした。

「…………」

小河の言葉に皆は黙り込み、大久保も何も言わず、場の空気は重たくどんよりするばかり。

大久保利通/国立国会図書館蔵

明治天皇も、どうやら田中のことは持ち出さないほうがよいと悟ったのでしょう。

それからは、人前で田中の名を持ち出すことはありませんでした。

 


中山家に仕えた秀才

文化12年(1815年)のこと。

田中は但馬国出石郡神美村香住(現兵庫県豊岡市)の医者・小森信古と、母・三谷氏の間に、二男・賢次郎として誕生しました。

名は綏猷(やすみち)、字は士徳といいます。

幼いころから神童として名高く、出石藩侍講の儒学者・山本亡羊(ぼうよう)に師事。武道もたしなみ、弓術が得意でした。

そんな田中に転機が訪れたのは、天保14年(1843年)でした。

師である亡羊の推挙で、中山忠能(ただやす)に召し出されたのです。

中山忠能/wikipediaより引用

中山家は、藤原北家系統の公家であります。

上洛し、中山家に仕えることとなった田中。はじめは、公家侍として庶務を担当しました。

文武両道で人格も優れていた田中は、教育者としても見いだされました。

中山家の子女にあたる、忠愛・忠光・慶子らの侍講(家庭教師)も任されたのです。

田中は中山家の「侍(諸太夫=家老に次ぐ重臣)」にあたる田中綏長の女婿となり、田中家を継ぎます(それまでは小森です)。

そして従六位河内介に叙され、「田中河内介」となるのでした。

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