2019年大河ドラマの『いだてん』。
【オリンピック】という意外過ぎるテーマに、面食らった方も少なくないでしょう。
物語で序盤の中心人物となるのが
・金栗四三(中村勘九郎さん)
と
・三島弥彦(生田斗真さん)
です。
金栗が長距離ランナーで、三島が短距離ランナーです。
日本人初の五輪選手としてストックホルム大会に出場するわけですが、それぞれ史実の功績については名前のリンク先記事を辿っていただければ幸い。
今回は三島の家族にスポットを当て、
・兄の三島弥太郎
と
・母の三島和歌子
を取り上げてみたいと思います。
父の三島通庸(みちつね)については、現状、キャスティングが発表されておりません。
実はこの方が、薩摩出身でかなり濃ゆいエピソードの持ち主で……。
大久保利通に可愛がられた精忠組のメンバーであり、血なまぐさい幕末を生き抜いてきたホンモノの志士であります。
ただし、後に「鬼県令」と呼ばれ、東北ではすこぶる評判が悪いのであります。
その詳細については以下の記事に譲るとして、今回は三島弥太郎と三島和歌子に注目させていただきます。
会津で長州よりも嫌悪された男・三島通庸「鬼県令」は薩摩の精忠組出身だった
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兄・三島弥太郎とは?
薩摩、しかも「精忠組」出身の父である三島通庸。
そんな三島家の長男である弥太郎は、明治時代のエリート中のエリートです。
現代が設定のフィクションでも「警視総監の子」となれば、典型的なセレブ扱いですよね。
弥太郎は、三島夫妻がまだ鹿児島に暮らしていた、維新前夜の慶応3年(1867年)に生まれました。
学業優秀であった弥太郎。
山形師範学校卒業後に駒場農学校に学びます。父の任地について行ったのでしょう。
そこからの学歴が凄まじい。
明治17年(1884年)から21年まで、アメリカ・マサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)で、農政学を学びます。
卒業後はコーネル大学大学院(アメリカ)で害虫学を学び、修士の学位得るものの、病気で退学となりました。
エリートで海外経験もある――となれば、帰国後も放って置かれるはずがありません。
しかも彼は父と違って温厚かつ慎重な性格でした。
日本では、農商務省の嘱託の後、明治39年(1906年)、横浜正金銀行の取締役に就任。
明治44年(1911年)には、頭取となっております。
また、明治30年(1897年)の第2回伯子男爵議員選挙では、貴族院議員に当選しました。
彼が第一次世界大戦期を含む、内外金融多忙時の財界調整を果たした役割は極めて大きいものです。
ただ、そのストレスが甚大であったのでしょうか。
あるいは第一次戦中戦後の激務がたたったのか。
大正8年(1919年)急病により現職のまま逝去してしまいます。享年53でした。
『いだてん』では小澤征悦さんが演じる弥太郎。
エリート金融マンとして、弟・弥彦の挑戦に気を揉む人物となりそうです。
※なお、弥彦も五輪後は銀行員となります
母・三島和歌子とは?
ドラマで白石加代子さん演じる三島和歌子も、薩摩出身の女性です。
弘化2年(1845年)に、鹿児島で誕生しました。
彼女の兄は柴山竜五郎景綱。
三島通庸と同じ上之園郷中の出身であり、二人はとても馬が合ったようです。
幕末維新の動乱から、明治新政府の官僚としてのキャリアまで、同じ道を歩みました。
柴山は、県令としての通庸をよく支えました。
そのため、悪事の片棒を担ぐような悪印象すら抱かれたようですが……。
兄の郷中仲間である通庸に、和歌子はひそかに恋心を抱いていたと伝わります。
和歌子は14才で別の男性に嫁ぐことになりましたが、かなり不満だったそうで。
若い頃の通庸は、精神を病んだ父にかわって母と妹の面倒をみなければならず、かなりの苦労をしていました。
そのため、柴山家としては和歌子を嫁がせたくなかったのかもしれません。
しかし、和歌子はわずか数年で離縁され、実家に戻されます。
兄・景綱と通庸は、文久2年(1862年)の「寺田屋事件」に連座していました。
そのため、二人は藩主の父であり実質的な薩摩藩の支配者である島津久光に睨まれ、謹慎処分とされていたのです。そんな柴山家の娘は、嫁としてふさわしくないと思われたのでしょう。
しかし、これはかえって和歌子にとっては幸いなことでした。
和歌子の父である権助は、我が子景綱と志を同じくする通庸を、頼もしい若者と感じたのでしょう。
謹慎処分の身内同士、二人は晴れて夫婦となったのです。
和歌子の兄・景綱、夫の通庸は薩摩の剣術・薬丸自顕流の腕前に自信を持っていました。
そして和歌子自身も、武芸を嗜んでおりました。
夫がたびたび命を狙われるようになると、彼女も仕込み杖を携帯し、ボディガードの役目をかって出たとか。
熱い薩摩の女性です。
相思相愛ながら結ばれた三島夫妻でしたが、夫・通庸は、ほどなくして妾を囲うようになります。
しかし、そこは明治の女性です。
不満を訴えることもなく、じっと耐え忍びました。
妾が生んだ子でも、和歌子は実子と分け隔て無く接したと伝わります。
夫の死後(亡くなったとき弥彦は2才)、和歌子が三島家を取り仕切っていました。
ドラマでも、五輪を目指す弥彦の背中を、力強く押す姿が見られることでしょう。
晩年は、長男・弥太郎に先立たれる不孝があったものの、大正13年(1924年)まで生きておりました。
享年79という大往生でした。
三島家のスキャンダル『不如帰』騒動
三島家は何も悪くない。
むしろ被害者ともいえる話があります。
明治時代、彼らはハタ迷惑なスキャンダルに巻き込まれました。
ときは明治31年(1898年)。
作家の徳冨蘆花が『不如帰』を発表しました。
この小説は、三島弥太郎と、嫁いで若くして亡くなったその妻・大山信子をモデルとした悲恋小説です。
その風評被害が、なんと和歌子に及んだのです。
彼女は、嫁いできた病弱な嫁をイジメる、悪どい姑として描かれたのでした。
本作の被害者はもう一人おります。
大山信子の継母・大山捨松です。
実際には善良で、信子との関係も良好であった捨松。それが、これまた極悪非道の継母として描かれたのです。
蘆花、多方面に喧嘩売りすぎやで。
会津藩家老の娘・大山捨松が辿った激動の生涯~留学後に敵の妻となる
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当時の人からすれば、名前を変えてあってもモデルはバレバレです。
和歌子と捨松は、世間の冷たい目にさらされました。
二人の苦境を、作者の徳冨蘆花は徹底無視。
捨松がスペイン風邪で重篤になってようやく謝罪するという、ゲスな対応を取ります。
なぜ徳冨蘆花はこんなことをしたのか?
と言いますと、どうやら私怨のようです。
蘆花は、山本覚馬の娘・久栄と恋に落ちました。
山本は、元会津藩士で同志社大学創設者・新島襄の義兄にあたる人物です。
ところがこのロマンスを、山本の妹で新島襄の妻にあたる八重が妨害。
蘆花の胸には、会津藩のイラつく女が俺の恋路を邪魔しやがった、という敵意が生まれまして。
赤裸々に恋愛体験を描いてしまうという蘆花の性格を考えると、かわいい姪っ子を守ろうとした八重がむしろ正しいと思えますけどね。
その敵意を、八重と同じ会津藩出身の大山捨松にぶつけたのです。
なので薩摩の三島和歌子は完全にとばっちりですね。
いずれにせよ三島家および大山家にとっては迷惑な話。
現代ならば、蘆花のSNSアカウントとAmazonレビューは、きっと大炎上していることでしょう。
父・通庸は出番がないと思われますが、和歌子と弥太郎は重要な脇役として登場しそうです。
どんなドラマになるのか、2019年が楽しみですね。
文:小檜山青
【参考文献】
『評伝三島通庸―明治新政府で辣腕をふるった内務官僚』幕内満雄(→amazon link)
『国史大辞典』