会津藩主・松平容保は、美濃高須藩から養子に入りました。
と、このことはよく知られておりますが、実は別の悲しい縁もあります。
凌霜隊(りょうそうたい)――。
岐阜県の郡上藩から会津に送られ、激しい戦闘の末に戦死した郡上藩士たちが数十名いたのです。
彼らは【霜を凌ぐ】という痛烈な覚悟の名称でもって組織され戦地・会津へ赴き、そして敗北すると明治元年(1868年)11月17日に郡上藩へ戻ってきました。
幕末史においてはあまり注目されない。
されどドラマ性に富んだ凌霜隊を追ってみたいと思います。
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高須四兄弟
江戸時代――御家のため跡継ぎを作るのは藩主の大切なシゴトでした。
世継ぎがいなければ藩が潰され、家臣たちも路頭に迷うリスクが生じる。それだけは何としてでも避けたい!
そう考えた大名家は養子探しに奔走するわけで、そうなれば少しでも家柄の良い、才知あふれた子息が欲しくなります。
身体壮健で男子が多く産まれた大名家は、こうした養子の提供元となりました。
幕末において、その好例が美濃高須藩の松平義建(よしたつ)でしょう。
子宝に恵まれた義建は、名門・松平家だけに引く手あまたで、多くの家に息子を送り出しました。
長男:夭折
次男:松平慶勝 尾張藩・尾張徳川家養子
三男:松平武成 浜田藩・越智松平家養子
四男:夭折
五男:松平茂栄 高須藩主(義比)→尾張藩主(茂徳)→一橋徳川家養子(茂栄)
七男:松平容保 会津藩・会津松平家養子
八男:松平定敬 桑名藩・久松松平家養子
九男:夭折
十男:松平義勇 高須藩主
ご覧の通り、養子先は名だたる藩ばかりです。
特に名を残した四名(青字)は「高須四兄弟」と称され、孝明天皇の信任篤い「一会桑政権」のうち、2名が高須四兄弟でした。
以下の通りです。
残念ながら西郷どんではほとんど触れられなかった一会桑政権のうち、「会」と「桑」が兄弟だったのですね。
2013年の大河ドラマ『八重の桜』では、松平容保を演じた俳優・綾野剛さんが、郡上藩のある岐阜県出身だったので不思議な縁を感じていたそうです。
飯盛山にある「郡上藩凌霜隊之碑」
慶応4年(1868年)、8月23日――。
白虎隊士中二番隊の若者たちは、疲労、激しい風雨による体力低下を招き、空腹を抱えた状態で飯盛山に登りました。
「城が燃えている!」
そこから彼らが見た光景は、城下町が燃えさかる姿でした。
当初は、城が燃えているのかと驚いた少年たちですが、それは見間違いだと気づきます。
「いや、城下町が燃えているだけだべ。落ち着け」
彼らは疲れ切り、絶望していました。
「んだけんじょ、こんな状況で城までたどり着けるとは思えね……」
「腹を切るしかねえのか……」
追い詰められていた彼らは自刃し、飯沼貞吉以外の若い隊士たちは敢えなくその命を散らします。
悲劇の起こった飯盛山は、のちに会津藩関係者により、慰霊の土地として整備されます。
その飯盛山に、白虎隊でもなければ、会津藩士のものでもない、とある慰霊碑があるのをご存知でしょうか?
【郡上藩凌霜隊之碑】
そうです。
郡上藩です。
しかし、現在の岐阜県にある郡上藩士たちの慰霊碑が、なぜ飯盛山にあるのか?
はるばる会津まで駆けつけ、命を賭した武士たちがいた――。
彼らこそが【凌霜隊】でした。
郡上藩、生き残りを賭けた秘策
岐阜県は、名城の多い県です。
戦国時代、天下人となる織田信長が本拠とした岐阜城をはじめ、大垣城、岩村城……。
天下分け目の関ヶ原もあり、歴史ファンなら垂涎の地ばかりです。
そんな岐阜県で是非訪れてみたいのが、木造天守閣を備えた郡上八幡城でしょう。
深い山中に立つ遠景の姿が立派ならば、間近で見た城もまた見目麗しい。
この郡上から会津まで転戦したのが【凌霜隊】でした。
幕末の郡上藩は4万8千石。
藩主は青山幸宜。
譜代の名門とはいえ、小さな藩であります。
郡上藩のような小さな藩は慶応3年(1867年)という明治直前期を迎えても、維新派なのか佐幕派なのか、東西どちらを支持するのかハッキリとは判断しにくい状況でした。
数万石程度の藩は自らの意思というよりも、周囲に流されて戦うこともあったのです。
鳥羽・伏見の戦いも終わり、幕府は追い詰められている状況。
とはいえ、途中で逆転するかもしれないし、最終的にどちらが勝利を収めるか、極めてわかりにくい――。
そんな中、藩主の青山幸宜の帰国を待ち、国家老の鈴木兵左衛門は生き残りの策を進言します。
「西軍に恭順すると見せかけ、幕府を支援する部隊を組織して転戦させましょう」
これならばどちらに転んでも、言い訳が出来るという二股策です。
藩主の幸宜は当時僅か14歳ゆえにうなずく他ありません。
かくして郡上藩では、選りすぐりの精兵を密かに選抜することになりました。
密命は、江戸の郡上藩屋敷に送られました。
江戸家老・朝比奈藤兵衛は、苦い顔でこの命を受け取ります。
確かに二股の策ではあります。しかし、江戸の郡上藩士は意気軒昂でした。
譜代大名の武士として、幕府のために戦ってこそ武士の忠義だと、彼らは信じていたのです。
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