織田信長という英雄を討ち取った――。
そんな日本史上最大の下克上を成し遂げながら、光秀はなぜ秀吉に負けてしまったか?
答えはご存知【山崎の戦い】にあります。
京都と大阪の県境に位置する山崎の地にて、秀吉軍4万と光秀軍1万が激突。
秀吉方の圧勝に終わりました。
この一戦でよく語られるのは、天王山という地の利や、秀吉の神懸かった統率力などでありますが、果たしてそれだけでしょうか?
光秀や秀吉には、互いにどれほどの勝算があったのか。
そもそも、勝利がどちらに転ぶかわからないからこそ合戦になったのではないか。
本稿では、そんな疑問を念頭に置きつつ、本能寺の変からの一連の流れを振り返ってみたいと思います。
なお、山崎の戦いの日時は今から440年前の天正10年(1582年)6月13日に勃発しております。
本能寺の変が起きたのは、その11日前の天正10年(1582年)6月2日。
まずは、6月2日に時計の針を戻し、話を進めていきましょう。
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本能寺直後から政権運営に着手
本能寺で信長を討ち、二条御所の織田信忠を自害させた光秀が、その後、拠点に選んだのは「近江」でした。
ここから彼の政権運営がスタート。
2日の午前中に、かねてから光秀の盟友として知られていた公卿の吉田兼見と対面します。
兼見は「新天下人」の光秀に対し「これから領地のコトをよろしく頼むよ」と陳情するほかありません。
この時点では、まさか光秀政権が一瞬でひっくり返るとは夢にも思っていなかったでしょう。
※以下は吉田兼見の関連記事となります
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次に光秀は、6月3日から5日にかけて自身の居城・坂本城にて、周辺の武将を明智派に組み込むべく工作を行っています。
その一方で配下を長浜に派遣し、宣教師オルガンティーノの来城を機会として彼にキリシタン武将・高山右近への説得を手伝わせました。
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矢継ぎ早に慌ただしく進みますが、なにせ【本能寺の変】直後のことです。
状況からして光秀は、
・単独で
・突発的に
犯行に及んだと予想され、事前の手回しなど一切していないはず。
それだけに寝る間も惜しんで動き回ったことでしょう。
本能寺の変における光秀の動機については、以下の記事に諸説をマトメましたので、よろしければご覧ください。
なぜ光秀は信長を裏切ったか? 本能寺の変における諸説検証で浮かんでくる有力説
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フロイス「摂津を放置したから滅んだのだ」
ともかく時間は1分でもムダにはできない状況下、6月5日には、城主不在となっていた安土城を接収しました。
城内の金銀財宝を部下に配分するとともに、彼らの手で近江領内にある羽柴秀吉や丹羽長秀の本城を立て続けに占領。
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さらには、朝廷側も兼見と光秀の関係性から、光秀との仲介役を兼見に依頼しており、6月7日には二人で「この度の謀反を詳細に語り合った」ようです。
かように、本能寺勃発から数日間は光秀が精力的に活動を重ね、着々と体制を固めにかかっていたことがわかります。
しかし、6月7日と8日の動きは比較的にぶいものでした。
宣教師のルイス・フロイスは「このタイミングで空き巣の摂津を占領しなかったから光秀は滅んだのだ」と分析しております。
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実際のところ、摂津国が完全に空き巣だったのか?といえばそうではなく、有力な武将が残存していたようです。
いずれにせよ光秀の思い描いていたであろう「成功への計画」は“6月9日”を境にとん挫し、明智家の将来に暗雲が立ち込めていくのです。
いったい6月9日に何があったのか……。
細川・筒井を味方にできず…
6月9日――光秀は自身の娘である明智たま(細川ガラシャ)が嫁いだ細川家へ、出兵の要請を送りました。
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光秀の立場からすれば『親戚の関係でもあるし、当主の藤孝とは長い付き合いだし、きっと味方になってくれる』と考えていたことでしょう。
しかし、細川親子に文書を送る前の段階で、光秀のもとに絶望的な一報が寄せられていた模様。
それは、次のような内容でした。
【細川藤孝・細川忠興親子がマゲを切り、信長に対する哀悼の意を表明している(信長への忠義を表現している)】
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彼らの振舞いに光秀は相当イライラしたでしょう。
それでもなお細川の力を頼りせざるを得ない光秀は「三カ条の覚書」を送り、自身への服属を求めています。
記述を要約するとこうなります。
【三カ条の覚書】
二人がマゲを払ったことはたいへん腹立たしいが、よく考えればそれも理解はできる。
もともと二人には摂津を与えようと思っていた。
が、お望みならば但馬と若狭をつけてもいい。ぜひ味方してはくれないか。
ちなみに、自分が謀反を企てたのは忠興らを取り立てようと思ってのことだ。
近国を平定したら私は引退して次代に任せる。
「細川の態度はムカつく!」
そう思いながらも「味方してくれないと困る……」とも考える光秀の苛立ちと焦り。
同情したくなりますが、そりゃ、光秀当人にとってはクーデターの成否がかかっているので必死ですよね。
しかし、本能寺直後から頑なに明智と距離をとっていた細川家が、この覚書一枚で光秀に味方するはずもなく、娘の細川ガラシャを幽閉、従者を送り返して実質的に「絶縁」を意味する回答を示しました。
これは致命的でした。
というのも細川家はいち武将として強力なだけでなく、名門一族でもあり、周辺勢力への影響力も強い。
しかも、ただ無視されるだけにとどまらず、彼らは今後の対決が予想される秀吉に急接近するのです。
このことを知った光秀は、まさしく絶句したことでしょう…。
さらに、光秀の与力大名として勢力を拡大していた筒井順慶も、出陣要請を黙殺します。
光秀は、順慶を出迎えるため、わざわざ洞が峠(現在の大阪府枚方市付近)まで出向いたとされますが、そこに順慶の姿はありませんでした。
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親戚で友人の細川藤孝と、自身の配下に等しかった筒井順慶。
この両家は、光秀も【味方である】と算段をつけていたでしょう。
戦国の世とはいえ、そんな彼らにアッサリと見捨てられた彼の心情を考えると、寒々しくて、思わず同情したくなるほどです。
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