大河ドラマ『麒麟がくる』で明智光秀が育った場所として注目された美濃。
この地には絶世の美女がいて、大永7年(1527年)6月10日に男の子を産むと、後に、その男児が父殺しの壮絶な戦争を引き起こします。
母である美女の名は?
深芳野(みよしの)です――。
夫の斎藤道三と、息子の斎藤義龍が壮絶な権力争いを繰り広げ、隣国・織田信長も巻き込む合戦へと発展し、結果、道三が殺されてしまいます。
一体なぜそんなことになってしまったのか?
謎多き美女・深芳野の生涯に迫ってみたいと思います。
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主君から家臣へ 譲られ妻の深芳野
生まれも育ちもほとんどがナゾに包まれた美女・深芳野。
出自の考察には最終項にまとめるとして、話を先へ進めますと、彼女がいた当時の美濃は、守護であった土岐氏を中心に壮絶な「内輪揉め」が展開されておりました。
斎藤氏をはじめとする有力家臣同士の対立も加わり、非常に混沌とした情勢だったのです。
その中から一歩抜け出したのが守護候補の一人・土岐頼芸と、その右腕・斎藤道三。
大永7年(1527年)に頼芸は、守護の座をめぐって抗争を繰り広げていた兄の土岐頼武を没落させ、勝利を手にしました。
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この一件に先立つこと一年前——。
道三は、頼芸の妻であった深芳野を譲られ、自分の妻としておりました。
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「妻を部下に譲りわたす」というこの所業、現代人には全く理解できないことですが、戦国時代の女性が政争の道具として用いられていたことはよく知られています。
あるいは貴種の血を跡継ぎに欲するという武家の考えなどからすれば、仮に道三に嫁いですぐに妊娠が発覚しても、生まれてきた子を自身の子として育て、跡継ぎ候補の一人にするという選択肢もあります。
なんせ当時の乳幼児は致死率が相当なものです。
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家を守るという観点から考えれば一人でも多くの跡取り候補が欲しいところで、女性の身請も現在とは全く事情が異なります。
当時の婚姻時期を考えれば、深芳野は遅くとも20代前半までには結婚したと思われ、道三のもとに身を寄せた頃もまだ20代半ばだったのではないでしょうか。
身長180cmの超美人
深芳野について伝わっていることといえば、コレ。
【身の丈六尺余で絶世の美女】
であり、その記録は『美濃国諸旧記』で確認できます。
六尺はセンチメートル換算でおよそ180cmですから、たとえ現代の女性であっても飛びぬけた高身長ですよね。
戦国時代の平均身長は今よりもずっと低く、現代基準で考えれば「身長2メートル近い女性」に見えたかもしれません。
確かに『どうせ史料は、誇張して書かれた身長なんでしょ』というツッコミも納得できます。
戦国大名の伝聞に基づく高身長を、甲冑のサイズや遺骨などから割り出してみると【全然違う】ということは珍しくありません。
加えて『美濃国諸旧記』は後世に作られた二次史料ですし、内容にもアヤシイ点がないわけではありません。
しかし、彼女の高身長を裏付ける興味深い根拠があるのも事実。
それは道三と結婚した翌年に生まれた深芳野の息子・斎藤義龍でした。義龍は「六尺五寸(約195cm)殿」と呼ばれ、数々の高身長伝説を有しているのです。
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身長は両親の影響を強く受けるものですから、深芳野もまた高身長であったと考えることは不自然ではありません。
ただ、ここに一つ問題がありまして……義龍が生まれた年のことです。
彼は【道三と結婚した翌年】に生まれております。
前述の通り、深芳野は前年まで土岐頼芸の妻であり、道三との新婚生活はほんの一年ほど。そこから、かなりのスピードで生まれた子供ですから、当然ながら、こんな疑念も湧いてきましょう。
果たして義龍は道三の実子なのか?
本当は土岐頼芸の子ではないのか?
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