慶応4年(1868年)4月25日は近藤勇が亡くなった日です。
誰もが知るように、新選組を率いた局長。
今なお人気の新選組を語る上で、当然ながら筆頭に来なければならない存在ですが、どうにも捉えどころのない印象もあるかもしれません。
機敏な土方歳三と比較すると、素朴で物事を深く考えていないようなイメージと言いましょうか。
『新選組血風録』にせよ。
『燃えよ剣』にせよ。
フィクションでも一番目立つのは、No.2であるはずの土方歳三です。
フィクションを楽しむことは自由です。
とはいえ、史実を楽しむ上でこれは誤解を呼びかねないことも確かでしょう。
そこで本稿では、史実の近藤勇について迫ってみたいと思います。
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豪農三男坊から、天然理心流剣術家へ
天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡石原村辻(東京都調布市)にて、男児が生まれました。
父は農家の宮川久次郎、母はエイ。その三男にあたり、四人兄姉の末っ子です。
多摩川のそばにある豪農で生まれたこの男児は、勝五郎と名づけられました。
川で泳ぎを覚えた勝五郎は、遊び仲間を率いて魚取りをめぐる争いをして、必ず勝利をおさめていたと伝わります。
勝気でリーダーシップのある少年――士官学校時代に雪合戦をして勝利をおさめたという、ナポレオンを思わせるものでもあります。
そんな勝五郎はある日、原田忠司の天然理心流道場を訪れます。
入門を申し出るわけでもなく、じっと剣術を見つめている奇妙な少年は、どこか人目を引きました。
原田が師匠である近藤周助にその少年を会わせると、才能があり実戦向きではないかと目をつけられ、入門することとなります。
幼くして自宅に忍び込んだ賊と戦い、そのことが評判になったとも伝わります。
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近藤周介は嘉永元年(1848年)幼くして両親を失った勝五郎を養子としました。
農家の三男坊の宮川勝五郎は、剣術家の嶋崎(※近藤周助の旧姓)勝太となったのです。
新選組を率いる近藤勇は、かくして天然理心流を使いこなす剣術者としての人生を歩むこととなるのです。本稿では以下、近藤勇で統一します。
そんな近藤には髑髏が織り込まれた黒い稽古着が伝わっています。
万延元年(1860年)に結婚した妻・ツネが刺繍したものですが……近藤は道場主の妻が美女であるとかえってよろしくないと考え、美貌とはいえないツネを選んだとされます。夫婦には娘のタマがおりました。
髑髏の模様は「骨になるまで戦う」という、不屈の意思の表れでした。
近藤は穏やかで、声がはっきりとしていて、冗談を言う時は笑顔をを見せながら膝を叩いていたと、彼を知る人は語り残しています。
道場に沖田や土方が
元号が嘉永になったばかりのころ、白河藩足軽の子・沖田宗次郎(のちの沖田総司)が道場に顔を見せるようになります。
土方という美形の商人は「石田散薬」を箱に入れて売り歩いておりました。
幕末前夜の多摩で、何かが芽吹いていたのです。
話を先へ進める前に、近藤勇の教養について補足したいと思います。
近藤勇は武士としてのプライドが高く、教養面でもかなりのものがあります。天然理心流を引き継ぐ誇りゆえに、智勇を磨き上げていったことが想像できるのです。
父の久次郎は幼い我が子に『三国志演義』を読み聞かせており、近藤も「関羽はまだ生きているのか?」と尋ねるほど、義にあふれる人柄に憧れを見せていたのでした。
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近藤勇は、漢籍の知識があります。筆跡もしっかりしています。
彼の教養からも、武士でありたい、義に生きたいという願いは伝わってきます。
一方、土方歳三は俳句を趣味としていました。
当時は、俳句は町民のもの、漢詩は武士や学者のものであるという認識があったものです。この点からして、近藤勇はかなり知的エリートなのです。
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とはいえそれも、あくまで豪農や、永倉新八のような勉強嫌いの武士と比較すればの話。山南敬助はじめ、本物のインテリエリート武士には及びません。
ただ、頭の回転という意味では、近藤にせよ土方にせよかなりのキレ者でした。
幕末という時代、ナポレオンに憧れる人物が多くいたことはよく知られています。
近藤以下の新選組隊士たちは、ナポレオン戦争の英雄たちに似ている部分があります。
彼らはどちらも、血統的に見ればさほど上でもない。実力でのしあがった、武勇にたけた人物たちでした。
素朴で器がでかいだけではなく、知恵も周り、時に策も弄する――。
近藤たちは、存在そのものが革命的でした。
「八王子同心」が活躍する時代
いくら義に憧れ、元気で、剣術ができるとはいえ、あくまでも出身は多摩の豪農三男坊。
そんな人物がやがて幕臣となり、名を残したことこそが、近藤勇という人物の特徴です。
当時の日本のみならず、世界には身分秩序があります。
農民のような支配される側は、原則、武装や武器からは遠ざけられる。数で勝る彼らが武装すると、支配する側にとってはおそろしいことなのです。
しかし、当時の多摩では、農民に武力と知恵がありました。
注目すべきは「八王子同心」です。
八王子同心のルーツは、徳川家康が幕府を開く前にまでさかのぼります。
豊臣秀吉の画策により、後北条氏の関東に移された家康にとって治安維持は大きな悩みでした。
まだ後北条の残党がいる。
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有名な伝説的な盗賊としては、「三甚内」(向坂甚内・庄司甚内・鳶沢甚内)がおります。
彼らの存在はフィクションで誇張されておりますが、治安が悪かったことは確かです。それゆえ家康は、武田氏残党をはじめとして、半農反士の治安維持部隊を組織させました。
これが八王子同心のルーツとされています。彼らは身分秩序の中でも例外的な存在でした。
時代が進み、太平の世が実現。
真剣での切り合いもない。切腹もできないから、扇で真似をする。
そんな江戸時代では、この役職もただの名誉職となり、火災対策をすることくらいしか役目がなくなりました。
そんな中で、八王子同心は、売買できる権利としての“株”になってゆきます。
金に困って売り出すものがいれば、買い取るものもいる。
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時代も変わってゆきます。
19世紀はじめ頃から、幕藩体制そのものにひずみが生じ、治安が悪化。
八王子同心によって生み出された天然理心流は、そんな厳しい時代を生き抜くための実戦剣術でした。
関東を生きる八王子同心、そして豪農たちは、新たな力を持つ存在として、目立つようになってゆきます。
彼らには、身分社会から逸脱できる要素がありました。
・経済力
→株を買い取った豪農となれば、当然のことながら経済力がある。
・知力
→経済力を背景にして、教養を学ぶ機会も。
・武力
→天然理心流は、幕末最強の剣術となってゆく。
家康公以来の肩書きだけでなく、金もあるば知恵もあり、そして武力も備えている。当時、多摩の豪農とは、日本でもかなり上位のエリートでした。
後に浪士組が上洛した際、散々批判されたものです。
「太平の世をぬくぬく生きて、道場で稽古しただけの武士が警護って。何か役に立つんですか?」
そんな厳しい目線があった。対極に位置するのが近藤勇たち豪農出身者です。
ちなみに剣術ではなく、抜群の知性とセンスで名を残した豪農出身者もおります。
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幕末とは、黒船が来る前から煮えたぎる時代であったのです。
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