大河ドラマ『麒麟がくる』第39回放送で衝撃的なシーンがありました。
染谷将太さん演じる織田信長が、戦場で討ち死にした原田直政(塙直政)とその家臣を罵倒し、殴る蹴るの暴力を浴びせたのです。
いったい何が起きたのか?
原田直政という武将はどんな人物だったのか?
ドラマでは直政の人物像が描かれていなかったため、そう疑問に思われた方も少なくなかったでしょう。
実はこの直政、戦場で先頭を駆け回るタイプではなく、政治や外交なども含め、万能になんでもこなす方でした。
織田家では、光秀や勝家、秀吉など、他に個性豊かな武将が多いため、どうしても地味な存在となりがちですが、決して罵倒されるだけの無能な方でもなかったのです。
史実における命日は、天正4年(1576年)5月3日のこと。
本稿では、そんな原田直政の生涯を振り返ってみたいと思います。
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原田直政は信長親衛隊・赤母衣衆の出身
直政は最初の名字を「塙」といいました。
「はなわ」とも「ばん」とも読めますが、「ハン」や「伴」と書かれている一次史料のほうが多いので、おそらく「はん or ばん」でしょう。
出身は尾張の春日井郡。大まかにいうと現在の愛知県北西部です。
生年は不明ですが、永禄十年(1567年)に設置された織田家の【赤母衣衆】に後から加わったとされています。
赤母衣衆とは前田利家がリーダーを務めたこともある信長の直属部隊(親衛隊)で、そこで仕えているからには織田家で一定の信用を得ていたことは想像できます。
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気になるのは「母衣」という言葉でしょうか。
本来は流れ矢を防ぐため背中につける布のことで、馬に乗ると風をはらんで膨らむため、風船のように見えます。
下記画像のような絵画あるいは現代のマンガや映画などでご覧になられた方も多いかもしれません。
実際に、母衣は遠目からでも目立つので、いつしか戦場で使番が用いる名誉ある装備として扱われるようになります。
なぜ名誉かというと、一分一秒を争う戦場では伝令一つとっても武勇に優れた者が選ばれ、しかも目立って危険な役目だったからです。
なお織田家には【黒母衣衆】もいて、こちらは佐々成政がリーダーを担ったこともありました。
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後に利家と成政は北陸の覇権を巡って争うことになりますので、何か運命的なものも感じますね。
ちなみに『黒と赤のどちらが偉いのか?』なんて疑問もお持ちになられるかもしれませんが、敢えて言うなら黒でしょうか。
信長麾下では、黒母衣衆よりも赤母衣衆の方が若い部隊だったと目されています。
同じ家臣の息子たちでも、
兄=黒母衣衆
弟=赤母衣衆
とキッチリ分けられているため、信長の頭の中では黒母衣衆がやや上だったような気がします。
母衣衆の説明が長くなってしまいましたね。話を直政に戻しましょう。
馬廻衆から徐々に官僚的な仕事へ
直政は、永禄年間(1558年から1570年)の大部分を赤母衣衆の一員として過ごしたためか、この時期の動向についての記録はあまりありません。
所領も少なく、部隊を率いるような身分ではなかったのでしょう。
これだけでは少々イメージしにくいので、同じく赤母衣衆だった前田利家に注目しますと……。
永禄十二年(1569年)に信長の命で家督を継いだ利家は、このとき石高6,000石ほど。四男から前田家当主となる大出世を果たしますが、動員できる兵数は150人がいいところです。
となると、おそらく利家よりも所領が少なかったと思われる直政の動員力は推して知るべし。文字通り単騎駆けの武者だった可能性すらあります。
母衣衆の立場は悪くないものの、兵数においては柴田勝家などの古参武将に遠く及びませんでした。
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そんな直政が、吏僚(官僚)的な仕事を少しずつ受け持つようになったのは永禄十二年頃からのことです。
鉄砲調達を命じられたり、信長への客人を取り次いだり。
明智光秀などとともに寺院へ段銭(たんせん・臨時に課される地域限定の税金)を課したりしています。
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おそらくやこの頃には直政の名も、知る人ぞ知る存在になっていたでしょう。
同じく永禄十二年(1569年)の夏、公家の山科言継(やましなときつぐ)が岐阜を訪れた際、織田家の家臣たちへ挨拶回りのようなことをしており、その中に原田直政も含まれているのです。
山科言継は、もともと三河の徳川家康を訪ねようとしておりました。後奈良天皇の葬儀費用を頼もうと思ったのです。
そこで、その途中、信長に挨拶しようと、(おそらくほんの少しの下心を持って)岐阜に寄り道したときのことでした。
話を聞いた信長が
「今、家康は駿河へ出陣中ですし、この暑さの中、長旅を続けるのは大変でしょう。私から使者を出すので、岐阜でしばらくお待ち下さい」
と打診したため、言継はその時間を使い、より多くの織田家臣たちと交流したようです。
いわば予定外の面会だったわけですが、その訪問先の一つに選ばれた直政の存在感は、決して軽いものではなかったのでしょう。
京都の政治実務を担当
原田直政は、信長の生涯を描いた『信長公記』にも登場。
例えば元亀二年(1571年)10月に京都で行われた市民への「貸付米」を行っています。
貸付米とは読んで字の如く、織田家から市民に米を貸す代わりに、その利子を毎月朝廷に献上することにより、彼らの財政逼迫を援助しながら経済を回そうとしたのです。
この時期は明智光秀や島田秀満なども京都の政治に関わっていたため、直政は彼らと協力して仕事をする機会もたくさんありました。
ときには、羽柴秀吉や松井友閑などとも連携して動いています。
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この時点では赤母衣衆の一人に過ぎなかった直政が、彼らと肩を並べているのは不思議なものですが……。
日頃の仕事ぶりや態度から「コイツなら問題ないだろう」と信長に判断されたのでしょう。
考えてみれば、信長は若い頃から身分の上下を問わない人付き合いを好んでいました。
信長公記にも載っている有名な話ですと、以下の
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などで、名もなき家臣や老人たちにも積極的に話しかけています。
おそらくはその中で
「このあたりに有望な若者はいないか?」
というような話をしたり、あるいは
「コイツは仕事が出来る、名前を覚えておこう」
といった風に、人材を見つけていったのではないでしょうか。
信長が目指していた政治の最終形はわかりませんが、とてつもなくスケールの大きなことを成し遂げようとすれば、とにかく人材が必要です。
優れた者をより多く見出すには、生まれや元の身分にこだわらず、自分から積極的に探すことが肝要である、という信念を持っていたのでしょう。
話をする形式にもこだわった様子がなく、ときには公家相手でさえ立ち話で済ませることもありました。工事現場の指揮を執りながら……というように、他に要件が重なっているときに限られましたが。
また、信長は個々人の得意・不得意に合わせて仕事を割り振っていました。
同じ馬廻の中でも、戦場や日頃の警備といった武の面だけを担当した者もいれば、直政のように政治的な仕事を兼任した者もいます。実に柔軟な発想ですね。
もっとも信長の場合、父・織田信秀が急死したことなどから家督相続前後のトラブルが長く続き、古くからの家臣を盲目的に信用することができず、自分で人材発掘を行うところから始めなければならなかった……というのもあるかもしれません。
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常人ならば不利が長引くところを、自らの行動力によってカバーしてしまうというのが、信長の超人的な長所ですね。
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