富田信高と安濃津城の戦い

富田信高とその妻/wikipediaより引用

戦国諸家

戦場に現れた「美しい若武者」は俺の嫁?富田信高と安濃津城の戦いと後日譚に天晴!

慶長五年(1600年)8月25日は、安濃津城の戦い(あのつじょうのたたかい)が終わった日です。

戦ったのは以下の二人。

◆安濃津城の戦い

富田信高
vs
毛利秀元

「なんだかあまり聞かない、地味な武将だよね」

と思われるかもしれませんが、年号をよくご覧ください。

慶長五年=1600年は【関ヶ原の戦い】があった年ですね(旧暦で9月15日)。

「徳川家康が一日で石田三成に勝った!」ことばかりがクローズアップされがちですが、実はその前後には、日本各地のアッチコッチで合戦があったのです。

日本中の大名が真っ二つに分かれて戦ったので、当然といえば当然でしょうか。

まさか「関ヶ原だよ! 全員集合!」なんてマンガみたいなことはできないですもんね。

というわけで今回は富田信高と安濃津城の戦いを見て参りましょう。

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東軍・富田信高1,700 vs 西軍・毛利30,000

本稿の舞台である安濃津城は伊勢国安濃津にあった城です。

今の三重県津市にあたります。

ここは富田信高という徳川方(東軍)の武将が守っており、そこへ豊臣方(西軍)の毛利秀元が率いる3万の軍勢が押し寄せてきたのです。

毛利秀元は、名前からもお察しの通り、毛利家の武将(毛利元就の孫・穂井田元清の息子)。

豊臣秀吉のお気に入りでもありました。

毛利秀元/wikipediaより引用

一方の富田信高はどんな武将だったか?

もともと小さな城の一大名である富田家ですから大国毛利に太刀打ちできるほどの兵がいるはずもなく、周辺の味方に援軍を頼んでも集まったのはたった1,700人。

これでは戦のしようがありません。

しかし信高は諦めませんでした。

援軍を出してくれた分部光嘉(わけべみつよし)と共に、自ら槍を振るって奮戦します。

その姿に勇気付けられたのか。

十倍以上の戦力差があるにも関わらず、富田軍は大いに健闘しました。

 


多勢に無勢に現れた白馬の騎士

しかし、多勢に無勢では、やはり限界があります。

ついに信高は敵兵に囲まれ、絶体絶命のピンチに陥りました。

「切腹できないのは残念だが、一人でも多く敵を討ち取ってやる!」

そんな覚悟を決めたとき、奇跡が起こりました。

城の正門から、一人の武士が信高を目指して駆け寄ってきたのです。

安濃津城/photo by 663highland wikipediaより引用

あちこちの史料で「容姿端麗な武士」「美しい若武者」と書かれているので、遠目からでもわかるほどの美丈夫だったのでしょう。

その武士は、小柄ながらに槍を翳して大奮戦。

迫る敵兵を何人もなぎ倒し、西軍を混乱に陥れます。

 

「お、お前……オレの嫁じゃないか!!?」

疲れきっていた信高も目の前の光景が信じられず、まずは誰なのか確かめようと少しずつ近づきました。

生き残れたらその武士に褒美を与えなければいけませんし、それでなくても命の恩人です。

しかし、遠目から顔を見てもさっぱり見当がつきません。

「もしかして、分部殿の家臣だろうか?」とも思いますが、それにしても何かおかしい。

いったい誰だろうとハテナを浮かべる信高に、武士のほうから近付いてきました。

「殿が討ち死にされたと聞き、私もお供しようと出て参りました。まさか、生きてお会いできるなんて……!」

信高を連れ、城の中へ退きながら武士は語ります。

そこでようやく信高も気がつきました。

「お、お前……オレの嫁じゃないか!!?」

なんと、その武士は信高の奥さんだったのです。

実名は伝わっていませんが、宇喜多忠家(直家の弟)の娘だそうですから武士の娘には違いありません。

宇喜多忠家/wikipediaより引用

武器や戦時の心得もあったことでしょう。

 

改易になってしまう しかしその原因は……

しかし普段奥にいる妻がいきなり実戦に出てくるなんて、いくら何でも予想の斜め上どころか圏外です。

生死を共にしようとしただけでも嬉しく、富田信高はまさに男冥利に尽きる気分だったでしょう。

このとき信高も奥さんも二十代半ば~後半の若い夫婦だったそうです。

その後、信高は降伏することになるのですが、奥さんの雄姿は「巴御前の再来のようだ」と褒め称えられ、今に伝えられています。

幕末に活躍した月岡芳年(つきおかよしとし)という画家がこの逸話を元にした浮世絵を描いているほどです。

富田信高とその妻 月岡芳年/wikipediaより引用

その後、信高は宇和島藩主(愛媛県)になりますが、罪をおかして逃亡中のある人をかくまった罪で改易となってしまいます。

せっかく生き残れたのに何をバカなマネを……と、思ってしまいますよね。

しかし、それも致し方ないことだったかもしれません。なぜなら、ある人とは、妻の甥っこ(坂崎左門)だったのです。

「妻の恩を返したのだから悔いはない」

信高はそんな風に考えたのでしょうか。

もっと世の中に広まってもよい戦国夫婦かと思われます。

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【参考】
国史大辞典
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制 (講談社学術文庫)』(→amazon
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち~70人の数奇な人生~ (光文社知恵の森文庫)』(→amazon
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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