大河ドラマ『青天を衝け』の中に、あの夏目漱石から
「あれは駄目な人間だ」
と全否定されてしまった人物がいたのをご存知でしょうか?
ドラマでは犬飼貴丈さんが演じられ、非常に爽やかな人物だと見えましたが、史実の福地は一体何が駄目だったのか。
あらためて夏目漱石の言葉を全て引用すると、こうなります。
「福地桜痴の逸話を読んだが、あれは駄目な人間だ。ただし当人はよほどえらいと思っている。生前はかなり有名でも死ねばすぐ忘れられる人だ」
実は福地源一郎は、福沢諭吉と共に「天下の双福」と称され、当時は世間にその名が知れ渡った人物でもありました。
しかし現代ではどうでしょう?
実は当時から、決して良い評判だけでなく、
「御用記者になりそこねた奴」
とか
「才能はあふれているが、ヘラヘラしていて自分をコントロールできず、慎みを知らない」
というように辛辣な評価も多々ありました。
いったい史実の福地源一郎(福地桜痴)はどんな人物だったのか?
明治39年(1906年)1月4日が命日となる、その生涯を振り返ってみましょう。
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天保生まれの神童 福地源一郎
福地は天保12年(1841年)3月23日、父・福地苟庵と母・松子の末子として、長崎新石灰(しっくい)町に生まれました。
現在で言えば長崎市油屋町になりますね。
年齢的には、伊藤博文と同じであり、福沢諭吉の6才下、渋沢栄一の1才下となります。
明治時代には、天保年間生まれで活躍した人物が多く、こんな言葉もあります。
「天保老人」
良い意味ではありません。時代は変わったのに、自分たちの世代が国を作ったと大いばり。そのくせ新しい時代に馴染めない。そう皮肉った言葉です。
令和時代ならば、さしずめ「昭和老人」と言ったところでしょうか。
福地もまた、そんな天保生まれの人物でした。
福地家は漢方医であると同時に、漢籍はじめ書籍を学ぶ知的な一族でした。そんな家の父から薫陶を受け、福地はさまざまな知識を吸収してゆきます。
4才で『三千経』や『孝経』を素読。7才で長川東洲に入門します。その優秀さから「神童」であると評判でした。
彼の生まれ育った長崎は漢学のみならず、西洋の学問にも開かれた土地です。
安政3年(1856年)に「源一郎」を名乗るようになった16歳の時には、長崎学問所に合格。
蘭学を学ぶようになると、その2年後には名村八郎右衛門の養子に迎えられ、オランダ語通詞となったのでした。
言ってみれば若き天才エリートですね。
しかし、同時に欠点もありました。
やたらと軽薄にペラペラ話しすぎて、反感を買ってしまう。遊び好きでもあり、養子先の名村家から離縁され、さらには通詞も辞してしまうのです。
自由になった安政5年(1858年)。
福地は幕府の軍艦・朝陽丸に乗りました。海軍伝習生・矢田堀景蔵につき、江戸へ向かうのでした。
結婚後 念願の遣欧使節に選ばれて
親元を離れ、江戸に着いた福地源一郎。
安政6年(1859年)からは幕臣としてキャリアを積み重ねてゆきます。福地が賞賛した水野忠徳との関係はこのころから始まります。
この歳は福地のプライドが傷つけられることがありました。
幕府の遣米使節選抜から漏れたのです。
使節には勝海舟、福沢諭吉、小栗忠順ら、錚々たる面々がいたことを踏まえますと、福地の落胆もわかります。
そして幕府が海外と外交を始めた矢先の安政7年(1860年)、恐るべき事件が起こります。
【桜田門外の変】です。
福地は憂国の志があろうと暴力を用いることは暴虎馮河、あってはならないと書き残しています。
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この頃、外国に通じた幕臣たちは身に危険が及ぶことがありました。
志士たちの安易な攘夷活動から命を狙われたのですが、【桜田門外の変】がその動きを助長。暴力による世直しに目覚めた志士たちが、外国通の人物を殺傷する事件が相次いだのです。
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福地の職場もしばしば、攘夷テロの標的として襲撃されました。
元号が文久となったこの年、福地源一郎は両替商の娘・鎌田さとと結婚しました。
江戸でも遊んでいた福地が一応は身を固めたわけです。
身を固めたのがよかったのか。念願も叶いました。文久元年(1861年)、遣欧使節に選ばれたのです。
新妻を残し、ついに海外視察を果たした福地。西洋で見た技術、麗しい建築物、そして芸術に心を奪われます。
しかし帰国してみると、幕府は大変な状況に陥ってました。
徳川家茂と和宮の婚礼による【公武合体】が進められていったのです。
さらには【生麦事件】が発生し、福地は翻訳作業にかかりきりになります。
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福地は幕臣でも若く、そこまで深く政治には関与しておりません。軽薄で口の軽い性格を警戒され、幕政の中心からは遠ざけられていた節もあります。
翻訳に忙殺される日々
元号が慶応になると、幕府はフランスとの提携を深めました。
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その一手として、幕臣・小栗忠順がフランス人技師・ヴェルニーと共に横須賀製鉄所の建設を開始。
語学通の福地は、翻訳に忙殺される日々を送ります。
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慶応元年(1865年)、幕府の使節として再びヨーロッパへ向かうと、フランス語を学びました。
西洋文化に触れた幕臣たちが、何に関心を持ち、学ぶか。当然ながら人によって異なります。
渋沢栄一は商業と美女。
福沢諭吉は民主主義。
小栗忠順は工学技術と金の流れ。
栗本鋤雲は技術と政治制度。
そして福地は、文学はじめ芸術に最も心惹かれ、早くもその成果は出ます。
慶応2年(1866年)に帰国し、その翌年の慶応3年(1867年)には外国奉行支配調役格通詞御用頭取として取り立てられた福地は、このころナポレオンの兵法書『那破倫兵法』も翻訳出版したのです。
しかし幕臣にとっては決して順風満帆とはいえない時代を迎えます。
慶応3年(1867年)10月に【大政奉還】が実子されると、将軍・徳川慶喜と幕府は混乱の極みに陥るのです。
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福地はそれを見届けました。
将軍である徳川慶喜に置き去りにされたこと。
幕府海軍による抗戦を主張したものの、慶喜に取り上げられなかったこと。
かくして福地源一郎は幕臣ではなくなりました。
慶喜は己の保身に集中していたせいか、大勢いる幕臣の処遇については考えておりませんでした。
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新政府も同様です。
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