身体がデカくて力が強く、己を犠牲にしてでも主人公を守る――こうしたキャラクターは漫画アニメの定番であり、かつては非常に人気の高いポジションでした。
今なお大人気の漫画アニメ『鬼滅の刃』で言えば、岩柱・悲鳴嶼行冥(ひめじまぎょうめい)がこのタイプ。
他の漫画アニメ作品にも同様のタイプは数多く出てきますが、そうした“力持ちキャラ”を辿っていくと、ある人物にぶち当たります。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では元ラガーマンの俳優・佳久創(かく そう)さんが演じられ、体格はまさにガッチリ!
多くの方が抱く「弁慶イメージ」とほぼ合致していると思われるのですが、実はこの弁慶、非常に高い知名度に反し、史実の記録は驚くほど残されていません。
つまりはナゾだらけ。
それがなぜ「弁慶の泣き所」とか「弁慶の立ち往生」など、慣用句として残されるほど日本人に支持されてきたのか。
文治5年(1189年)閏4月30日はその命日。
弁慶の生涯を振り返ってみましょう。
※以下は悲鳴嶼行冥の関連記事となります
『鬼滅の刃』悲鳴嶼行冥を徹底分析!その像は古典的ヒーローを踏襲している
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弁慶の史実
弁慶は生年が不明ならば、生誕地もハッキリしていません。
史実からわかる確実なことは3つだけ。
・比叡山の僧侶で
・義経に付き従い
・文治5年(1189年)に討死する
この程度で終わります。
それがなぜ、物語では、ああも存在感のあるキャラクターになっているのか?
誰がいつ、そうした弁慶像を作り上げたのか?
そもそも何処に描かれているのか?
こうした疑問を挙げていくと、実在すら怪しく思えてきますが、『平家物語』と『吾妻鏡』には確かに掲載されています。
ただし、そこでの弁慶は「義経の郎党」の一人といった扱いで、さほど目立った存在ではなく、時代と共に伝説が強化されていくのです。
キッカケは『義経記(ぎけいき)』でした。
『義経記』から始まる伝説
『義経記』は全八巻から成る軍記物語で、作者は不明。
室町時代に成立したと考えられ、この物語をもとにして後世新たな小説や浄瑠璃、歌舞伎などの作品が作られてゆきます。
そこでの弁慶はどう描かれているか?
『義経記』における弁慶は紀伊生まれとされています。
※現在、和歌山県田辺市が力を入れてアピール中
熊野詣でにやってきた姫君がさらわれ、子を宿したのが始まり。弁慶の母は様々な困難に遭遇しました。
つわりのために母が鉄を食べたとか。
妊娠期間も諸説あって、長いと数年とか。
やっと生まれてきたと思ったら、もう髪の毛も歯も生えている!
と、恐ろしくなった母は我が子を捨ててしまい、鬼若と名付けられたその子は比叡山へ送られました。
比叡山での鬼若は、修行もろくにせず、暴れ放題でした。
そして暴力や放火など無茶な行動を繰り返し、様々な冒険を経て出会ったのが源義経――というのが『義経記』における弁慶の主な出自の情報ですね。
そのキャラクターは当時の日本人にも魅力的だったのでしょう。
『義経記』の弁慶は物語として愛され、スピンオフ『弁慶物語』も作られるほどでした。
RPG的な義経と弁慶
弁慶とはいかなる人物なのか?
様々な物語で弁慶というキャラクターが作られていく過程で見られるのが「義経伝説の流用」です。
義経の幼名が牛若ならば、弁慶は鬼若となり。
義経が東国を修行放浪するなら、弁慶は西国を回る。
あるいは自ら元服する義経に対し、自ら出家する弁慶など、現代人にしてみれば「まるでRPGのような冒険」と思えてくる設定だったりします。
二人の出会いもまさにRPGで『義経記』ではこう語られています。
当時、京都にいた弁慶。
奥州の藤原秀衡が名馬千匹、鎧千領を集めていると聞きつけます。
「よし、俺も太刀千振りを集めよう!」
そう願い、999振り集めました。
最後はとびきりよいものが欲しい――そう五条天神に祈る弁慶。
すると笛を吹く少年が現れます。
牛若丸でした。
清水寺で両者は戦い、弁慶が敗れ、義経に忠誠を誓う。
そんな伝説ですね。
五条天神で祈り、清水寺で戦っていたものが、後世は「五条大橋」での決闘と変化してゆきます。
歌や絵本にもなり、日本人にとっておなじみの名場面となりました。
問題は、当然あります。
当時の橋の位置とか。そもそも橋で戦っていないとか。要するに伝説だとか。
どれだけ名場面になろうと、フィクションはフィクション。
それでも『鎌倉殿の13人』では五条大橋で出会った設定を採用しています。
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