『平家物語』に出てくる白河法皇の言葉としてよく知られています。
でもこれ、妙な違和感がありませんか?
賀茂川(鴨川)の水が氾濫したり、サイコロの目が操作できない――ってのは確かにその通り。
しかし「山法師」とはいったい何なのか?
山とは比叡山。
法師とは僧侶のこと。
要は「比叡山の僧兵」を指し、武力を要する宗教勢ほど恐ろしい者はいませんでした。
しかも、延暦寺だけでなく、他にも興福寺や東大寺など、京都や奈良の大寺院では数多の僧兵を抱えていて、自分たちの要求を押し通すため武力行為に出ることもあったのです。
例えば天永4年(1113年)閏3月20日は興福寺による【永久の強訴】が勃発し、彼らの訴えが通されています。
大寺院が抱える武力の僧兵――彼らはどんな存在だったのか?
院政を推し進め、強い権力を握った白河法皇ですら意に沿わぬとは何様なのか?
源平合戦では弁慶に代表される、僧兵の歴史を振り返ってみましょう。
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僧兵は何時どうして生まれた?
僧兵――その起源はハッキリとしておりません。
仏教徒が集団となり、寺社を形成し自衛する上で、武装集団も自然と発生した。
そんな風に考えられていて、実は「僧兵」という呼び方は江戸時代以降に総称とされたものです。
かつては統一した呼び方すら無く、
・薙刀を持ち
・頭巾を被り
・下駄を履いた
典型的な姿は後世のイメージとお考えください。
ではなぜ自衛する必要があったのか?
というと、仏教が伝来し、大寺院が建立され、仏像や宝物が貯蔵され、そうした貴重品を守るために仏僧が武装した――かくして僧兵は生まれたのでしょう。
比叡山の場合、「誰が天台座主(天台宗最高位)となるか?」という権力闘争も影響しているとされます。
仏僧であろうと文武両道でなければ勝てない。
そんな事情があり、延暦寺中高の祖として名高い第18代天台座主・良源が僧兵を創設したという伝説もあります。
仏門に入ったもののオツムの出来がよろしくなく、仏の教えを学ぶことができず、力が有り余っている者を武装集団にしておく。
そうして荘園を狙う悪党どもを退治させれば、仏法を守ることができる、とか。
仏教を守るためには、やむをえず弓矢を持つしかなかった、とか。
仏教を学んでも暴力的で危険な者はいるから、指導しながら組織化した方がまだよい、とか。
他にも様々な要因が挙げられますが、いずれにせよ名目上は仏法を守るため僧兵が組織された。
当時はそれだけ殺伐とした時代だったのでしょう。
ふくれあがる集団、闘争、そして強訴
寺社の宝物を守るため武装する。
あるいは力が余っている僧侶が発散のために組織化する。
僧兵は、かくして膨れあがってゆきます。
いきおい寺同士の勢力抗争にも繋がり、数は力だ、と言わんばかりに延暦寺には三千の僧兵が常駐するようになりました。
もはや危険な軍隊。
巨大な武力を背景に、彼らは訴えを起こしました。
それが強訴(ごうそ)です。
寺の僧兵および神社の神人が、仏や神の教えを掲げ、朝廷や貴族相手に要求を押しつける。
平安時代中期には武装して邸宅まで押し寄せて破壊活動を行うようになり、シャレにならない事態へ陥ってゆきました。
武力だけでなく神仏の威を借るだけにタチが悪い。
結果、平安末期の11世紀後半から、鎌倉幕府成立の12世紀末に至るまでの院政時代に、僧兵の活動は最も盛んになっていました。
寺社仏閣の焼き討ちが頻発した背景にも、こうした僧兵の台頭があったのです。
あるいは日本一有名な僧兵といえば、武蔵坊弁慶でしょう。
彼がこの時代のシンボル的な存在であることは理にかなっているんですね。
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僧兵を抱える寺社には発言力があり、財務的基盤もあり、強力な武力もある。
これはさすがに危険だ……と敵認定して、強硬手段で抑え込む!という動きも武士の間で出てきます。
例えば平家凋落の遠因ともなった【南都焼討】もそうでしょう。
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そして源平時代辺りを頂点に、僧兵の勢力は衰えていきます。
それはなぜか?
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