大正12年(1923年)の9月1日、午前11時58分――。
相模湾西北部を震源とするマグニチュード7.9の関東大地震が首都圏を襲いました。
地震の規模が甚大なことはもちろん、お昼時というタイミングや木造家屋の密集から、火災による被害が壊滅的。
どれだけ強烈なダメージだったか?
というと、例えば当時は市政だった東京市だけでも、犠牲者58,420人のうち、実に9割以上の52,178人が焼死という惨状でした。
全体の死者も105,385人※1にのぼり、現在まで【関東大震災】として伝わる、世界規模でも他に類を見ない大災害となっています。
地震(揺れ)自体は【関東地震】とか【関東大地震】などとも呼ばれますが、では、当時の日本は関東大震災から如何にして立ち直ったのか?
現代の我々にも決して無縁ではない、復興までの道のりを中心に関東大震災を振り返ってみましょう。
※1資料によっては死者99,331人・行方不明者43,476人など
関東全域を襲った大地震と虐殺
日本史上でも、未曾有の被害となった関東大震災。
火災の影響により社会インフラが壊滅し、警察組織すらも麻痺してしまいます。
市中は大混乱に陥り、やむなく当時の陸軍が戒厳令を発令すると、東京や神奈川など、被害が大きかった地域は戒厳司令部の指揮下に入りました。
陸軍は、本来の業務である治安維持だけでなく、被災者の救済活動に乗り出したほどです。
そんな軍部の働きにより一時は民衆も落ち着きを取り戻たかのたようでした。
しかし、極限状態に陥った状況の最中「朝鮮人が治安を乱そうとしている」といったデマが飛び交い、やがて自警団が彼らを虐殺する痛ましい事件も発生しています。
他にも、政府にとって「目の上のたんこぶ」だった社会主義者や無政府主義者たちが虐殺の被害に遭い、戒厳司令部や時の政府による「どさくさ紛れの殺害もあったのではないか?」と見る研究者も少なくありません。
いずれにせよ、当時の日本が抱えていた問題点が噴出したことは間違いなく、発生から100年余りが経過した現代に至るまで9月1日は「防災の日」に制定されています。
では、注目の復興については誰がどう進めたのか?
後藤新平「帝都復興」に乗り出す
東京を中心とした関東の早期復興は、政府にとって何よりの急務でした。
震災直後、内閣総理大臣は海軍閥出身の山本権兵衛に代わり、山本内閣の中で実質的に副総理の地位にあった後藤新平内務大臣が帝都復興を主導してゆきます。
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後藤はまず復興の基本方針を定めました。
「東京の復興と同時に、都市潰滅を逆手にとって帝都を進化させる」
計画のポイントは「単なる旧状復帰」ではなく「帝都の造り変え」であり、莫大な予算を投じる予定でした。
こうして誕生したのが、帝都の復興を専門的に取り仕切る「帝都復興院」です。
後藤は人事に際して自らが積み上げてきた台湾総督や逓信大臣といった豊富なキャリアを利用し、気心が知れた参謀たちを集めました。
復興に必要な計画立案者や、実行に際して必要な技術者などをかき集め、前例のない大規模な都市復興に着手していったのです。
政府内での対立から計画は暗礁
国の独立機関として都市復興に着手した帝都復興院。
原案に基づいて帝都復興審議会が組まれると、後藤新兵だけでなく、渋沢栄一や犬養毅、高橋是清、伊東巳代治といった顔ぶれも集結しました。
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後藤が打ち出した未曾有の復興計画に対し、当時の大蔵大臣である井上準之助はおおむね同情的な姿勢を示しています。
ならば、すぐさま復興に着手……と思いきや……。
30億円規模の予算は不可能だと判断され、最終的には7億円程度に落ち着いてしまいます。
一体そこでは何が起きていたのか?
彼らが起草した原案は、復興審議会の中で大きな論争を引き起こしました。
特に、強固な反対姿勢を打ち出したのが伊東巳代治であり、
「そんな金はないし、地主の土地所有権を脅かすのではないか。そもそも、国を挙げて復興など必要なのか?」
という姿勢でした。
すると高橋是清や加藤高明などもこれに続き、当初の計画案は頓挫してしまったのです。
財界を代表する形で出席していた渋沢栄一が後藤の政府案に同情を示し、特別委員会も開かれましたが、そこでも伊東巳代治が政府案への反対姿勢を強めるばかり。
最終的に予算は増えるどころか1億円以上削減され、計画は、大幅な縮小を余儀なくされました。
ではなぜ巳代治がそこまで反対したのか?
彼の頑なな姿勢については「銀座に持っている土地の権利を奪われると危惧しているせいじゃないか?」という憶測がありました。
さらには、藩閥政治などの影響により、山本や後藤を「政敵」と見なした派閥が、手柄を挙げさせることを嫌ったのでは?という見解も。
まったく非常時に何をやっているんだ……と嘆きたくもなりますが、それでも兎も角、後藤は国家として東京の復興を目指さねばなりません。
そのとき一体どう動いたのでしょう?
後藤は計画の完成を見ることなく……
同志であるはずの復興委員に反対され、大幅な規模縮小を余儀なくされた関東大震災後の復興計画。
後藤には逆風が続きます。
震災の翌年、当時の皇太子(昭和天皇)が襲撃された【虎の門事件】の責任を取り、わずか半年程度で山本権兵衛が総理の座を辞することになったのです。
それでも後藤はできる限りの帝都復興を目指しました。
東京市長だった経験も活かして、政府と自治体を連携させ、まずは「区画整理」に着目した計画の実現に奔走。
自身に近い部下たちに区画整理の啓蒙を命じ、住民たちの「土地が奪われる」という警戒感を和らげていきました。
その結果、昭和5年(1930年)に計画自体はおおむね成功し、東京の道路網や街路、公園などは見違えるほど近代的な姿となりました。
「東京の復興は軍事的なものではなく、商業的なものにすべきだ」という復興計画の理念が反映されたのです。
しかし、です。
当の後藤は、不幸にも前年の昭和4年に脳卒中でこの世を去っており、計画の完成自体を見ることはできませんでした。
昭和天皇が残された言葉
後藤が発案した復興計画は、実は民間からも「大風呂敷だ」と非難されていました。
しかし現代ではその評価を一変させています。
戦後になって再評価され、実際、私たちの生活を確かに支えているのです。
例えば、隅田公園や錦糸公園、浜町公園なども復興事業の一環で整備され、現代の東京における名所として親しまれています。
これらの公園の規模は当時、世界でも類を見ないもので、日本を視察に来たアメリカ人の専門家も称賛したという話が残されているほど。
だからこそ、後藤の復興計画が当初の予定のままに進んでいたら、東京はどうなっていたのか?という、禁断の歴史IFも考えたくなってしまいます。
昭和天皇が震災の60年後、こんな言葉を残されているのです。
「震災ではいろいろな体験はありますが、ひとことだけいっておきたいことは、復興にあたって後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てた。もし、それがそのまま実行されていたら、おそらく東京の戦災(東京大空襲)は非常に軽かったんじゃないかとおもって、いまさら後藤新平のあのときの計画が実行されなかったことを非常に残念におもいます......」
天皇から見ても惜しむべき計画だったのでしょう。
後藤の計画が反対されたのは予算規模や政争だけでなく、何より
「前例がないから」
といった理由が大きかったように思えます。
おそらく日本特有の、過度な保守的思考が働いていたのではないでしょうか。
大災害については「前例」がないのが当然であり、現代に生きる我々もその辺を強く意識して、有事に備える必要がありそうです。
昨今は新型コロナウイルスの流行により私たちの日常も危機に瀕していますが、海外ではすでにコロナ前の生活に戻っています。
政争により縮小されたとされる後藤の復興計画について、我々も今あらためて考えるべきかもしれません。
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【参考文献】
『朝日日本歴史人物辞典』(→amazon)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(→amazon)
渋沢栄一記念財団編『渋沢栄一を知る事典』(→amazon)
越澤明『後藤新平』(→amazon)
松尾章一『関東大震災と戒厳令』(→amazon)
事業構想「関東大震災から東京を復興させた「国家の医師」後藤新平」(→link)
時事通信「関東大震災」(→link)
渋沢栄一記念財団「関東大震災後における渋沢栄一の復興支援」(→link)
渋沢栄一記念財団「渋沢栄一と関東大震災」(→link)





