天下を統一したわけでもないのに、戦国時代では圧倒的な人気を誇る武田家。
多くのファンが支持する理由は、武田信玄という絶対的な存在と、彼に仕える個性豊かで魅力的な武将たちでしょう。
とりわけ人気の高いのが武田四天王と称される面々。
いずれもフィクションでは欠かせない不動人気の武将たちですが、今回はこのうち馬場信春に注目。
信虎・信玄・勝頼の三代に仕えて「不死身の鬼美濃」と称され、最期は【長篠の戦い】で討死を遂げた――まさしく武田の歴史を体現するその生涯を振り返ってみましょう。
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教来石から馬場へ
馬場信春は、永正11年(1514年)あるいは永正12年(1515年)に生まれたとされます。
主君である武田信玄の7歳上。
出自は甲斐国にいた辺境の武士である武川衆でした。
一族は教来石村に住み、その土地名を名乗ったことから、教来石景政(きょうらいしかげまさ)というのが元々の名乗り。
信玄の父・武田信虎時代から武川衆として仕え、嫡男・武田晴信(後の武田信玄)の初陣である【海ノ口城攻め】でも武功を挙げたとされ、その後、武田家に激震が走ります。
天文10年(1541年)6月、若き晴信が父・信虎を駿河へ追放したのです。
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教来石景政に大きな転機が訪れたのは、それから5年後のこと。
天文15年(1546年)、武功をあげる景政をみて、晴信は譜代家老である馬場氏の名跡を与えることにしました。
馬場氏は、前当主だった虎貞が信虎に手打ちにされて以来、途絶えていたのです。
かくして名門である馬場氏は復活を遂げ、名も改め、馬場信房が世に出ます。
永禄5年(1562年)、勇猛さで知られた原虎胤が隠居すると、受領名の「美濃守」も引き継ぎました。
同時に虎胤の「鬼美濃」まで引き継いで馬場信春となり、名実ともに武田家中随一の猛将として世に知られるようになります。
諏訪攻めや駿河攻め、【三増峠の戦い】はじめとする北条との戦い。
そして上杉謙信との激戦として有名な【川中島の戦い】の数々。
信玄の赴くところ必ず馬場信春がいて、その勇猛さで敵兵の心胆を寒からしめてきたのでした。
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不死身の鬼美濃伝説
馬場信春といえば不死身の鬼美濃――戦国ファンならば一度は聞いたことのある名前でしょう。
漫画にせよゲームにせよ、とにかく強い!
そんな強烈な印象があり、彼には数々の伝説があります。
ざっとこんなところでしょうか。
真偽不明のものもあり、後世、誇張されたものもありそうですが、築城の名手でいくつもの城を手がけ、負傷せず不死身と称される――それだけでも十分強いと言えるでしょう。
山県昌景らと並び武田四天王とも称される、まさしく名将の一人でした。
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勝頼の継承に揺らぐ武田家
合戦では強い武田家。
しかし、周辺大名との外交を契機にひびが入り始めます。
永禄10年(1567年)10月19日、嫡男の武田義信が亡くなったのです。
かつては自刃に追い込まれたとされ、現在では病死が有力とされている義信の死は、武田家の行く末に大きな影響を与えました。
義信は今川家から正室を迎えており、彼の存在は今川家との同盟を破棄するか否か、外交上の決断に影響を及ぼしていたのです。
これに先んじること2年、義信の傅役である飯富虎昌も謀反の疑いで誅殺されており、武田家中は混乱の様相を呈していました。
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跡継ぎが不安定となれば、結束が揺らぐのは当然なこと。
信玄存命の頃はそれでも圧倒的な強さを誇っていましたが、元亀4年(1573年)、ついにその信玄が世を去ってしまいます。
家督を継いだのは四男の武田勝頼。
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しかし、信玄の認識ですら勝頼は後継者ではなく、あくまで中継ぎと考えられていたとされ、ますます家中に隙間風が吹き始めます。
先代から仕えてきた重臣の馬場信春や山県昌景は疎んじられ、勝頼の側近や御一門家臣団が意見を通すようになっていく。
そんな武田家の不穏を周辺大名が見逃すわけがありません。
織田信長と徳川家康は同盟を結び、武田に目を光らせていました。
そして天正3年(1575年)5月21日、運命の【長篠の戦い】を迎えるのです。
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