天下を統一したわけでもないのに、戦国時代では圧倒的な人気を誇る武田家。
多くのファンが支持する理由は、武田信玄という絶対的な存在と、彼に仕える個性豊かで魅力的な武将たちでしょう。
とりわけ人気の高いのが武田四天王と称される面々。
・馬場信春
・内藤昌秀
・山県昌景
・春日虎綱
いずれもフィクションでは欠かせない不動人気の武将たちですが、今回はこのうち馬場信春に注目。

馬場信春(教来石景政)/wikipediaより引用
信虎・信玄・勝頼の三代に仕えて「不死身の鬼美濃」と称され、最期は【長篠の戦い】で討死を遂げた――まさしく武田の歴史を体現するその生涯を振り返ってみましょう。
教来石から馬場へ
馬場信春は、永正11年(1514年)あるいは永正12年(1515年)に生まれたとされます。
主君である武田信玄の7歳上。
出自は甲斐国にいた辺境の武士である武川衆でした。
一族は教来石村に住み、その土地名を名乗ったことから、教来石景政(きょうらいしかげまさ)というのが元々の名乗り。
信玄の父・武田信虎時代から武川衆として仕え、嫡男・武田晴信(後の武田信玄)の初陣である【海ノ口城攻め】でも武功を挙げたとされ、その後、武田家に激震が走ります。

武田信虎/wikipediaより引用
天文10年(1541年)6月、若き晴信が父・信虎を駿河へ追放したのです。
教来石景政に大きな転機が訪れたのは、それから5年後のこと。
天文15年(1546年)、武功をあげる景政をみて、晴信は譜代家老である馬場氏の名跡を与えることにしました。
馬場氏は、前当主だった虎貞が信虎に手打ちにされて以来、途絶えていたのです。
かくして名門である馬場氏は復活を遂げ、名も改め、馬場信房が世に出ます。
永禄5年(1562年)、勇猛さで知られた原虎胤が隠居すると、受領名の「美濃守」も引き継ぎました。
同時に虎胤の「鬼美濃」まで引き継いで馬場信春となり、名実ともに武田家中随一の猛将として世に知られるようになります。
諏訪攻めや駿河攻め、【三増峠の戦い】をはじめとする北条との戦い。
そして上杉謙信との激戦として有名な【川中島の戦い】の数々。

上杉謙信/wikipediaより引用
信玄の赴くところ必ず馬場信春がいて、その勇猛さで敵兵の心胆を寒からしめてきたのでした。
不死身の鬼美濃伝説
馬場信春といえば不死身の鬼美濃――戦国ファンならば一度は聞いたことのある名前でしょう。
漫画にせよゲームにせよ、とにかく強い!
そんな強烈な印象があり、彼には数々の伝説があります。
・築城の名手
・武田氏に仕え40年で無傷(最期の戦いとなる【長篠の戦い】まで負傷せず)
・山本勘助から授けられた計略の才能

山本勘助/wikipediaより引用
ざっとこんなところでしょうか。
真偽不明のものもあり、後世、誇張されたものもありそうですが、築城の名手でいくつもの城を手がけ、負傷せず不死身と称される――それだけでも十分強いと言えるでしょう。
山県昌景らと並び武田四天王とも称される、まさしく名将の一人でした。
勝頼の継承に揺らぐ武田家
合戦では強い武田家。
しかし、周辺大名との外交を契機にひびが入り始めます。
永禄10年(1567年)10月19日、嫡男の武田義信が亡くなったのです。
かつては自刃に追い込まれたとされ、現在では病死が有力とされている義信の死は、武田家の行く末に大きな影響を与えました。
義信は今川家から正室を迎えており、彼の存在は今川家との同盟を破棄するか否か、外交上の決断に影響を及ぼしていたのです。
これに先んじること2年、義信の傅役である飯富虎昌も謀反の疑いで誅殺されており、武田家中は混乱の様相を呈していました。

飯富虎昌/wikipediaより引用
跡継ぎが不安定となれば、結束が揺らぐのは当然なこと。
信玄存命の頃はそれでも圧倒的な強さを誇っていましたが、元亀4年(1573年)、ついにその信玄が世を去ってしまいます。
家督を継いだのは四男の武田勝頼。
しかし、信玄の認識ですら勝頼は後継者ではなく、あくまで中継ぎと考えられていたとされ、ますます家中に隙間風が吹き始めます。

武田信玄(左)と武田勝頼/wikipediaより引用
先代から仕えてきた重臣の馬場信春や山県昌景は疎んじられ、勝頼の側近や御一門家臣団が意見を通すようになっていく。
そんな武田家の不穏を周辺大名が見逃すわけがありません。
織田信長と徳川家康は同盟を結び、武田に目を光らせていました。
そして天正3年(1575年)5月21日、運命の【長篠の戦い】を迎えるのです。
長篠で殿(しんがり)を務め、討死を遂げる
迫りくる織田軍と徳川軍に対し、馬場信春はどうしたか?
様々な策を説き、なんとしても勝頼の心を変えさせ、敗北を止めようとしたとされる、そんな逸話が現代にまで伝わっています。
しかし、こうした話は「かの名将ならば武田家の破滅を止められたかもしれない……」という、後世の願望ありきの作り話もあるとみられ、慎重に受け止めねばなりません。
設楽原での決戦――馬場信春率いる700の部隊は、佐久間信盛と対峙。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikipediaより引用
勇猛果敢で知られた馬場信春の率いる軍は奮闘するも、数で劣るとなると次第に押し返されます。
次々と将が倒れ、崩れてゆきました。
この戦いは、武田方の将の犠牲が非常に多かった。
例えば真田家では、嫡男だった真田信綱とその弟の真田昌輝、二人の将を失っているのが典型例(二人の下に後に真田家を継ぐ真田昌幸がいます)。
かくも大きく崩れるとなると、決定的な敗因があったのでしょう。
信春は「もはやこれまで」と、勝頼に撤退を進言。
勝頼の背を見送り、内藤昌秀と共に退路に踏みとどまると、地の利を生かし敵を迎え撃ちます。

内藤昌秀/wikipediaより引用
信春の強さは築城名手であるように、地形を生かすことがあるとされます。
そして、ここでの馬場信春の勇戦は『信長公記』にも記されました。
馬場美濃守手前の働き比類なし――
それほど際だったものでしたが、不死身の鬼美濃の武勇もこれまで。
勝頼の撤退を見届けると、その命を散らしたのでした。
永正11年(1514年)生まれであれば、享年61。
武田家三代を見届けた勇将の最期でした。
馬場氏の子孫
馬場信春の子・小田切昌松は、父の死後に追悼。
彼の家は小田切氏として残され、馬場の家督は弟の信頼が継いだとされます。
信春の娘は、
・鳥居元忠
・真田信尹
・初鹿野信昌
に嫁いでいます。
真田信尹は、真田昌幸の弟であり、2016年大河ドラマ『真田丸』では栗原英雄さんが演じていました。
彼の子孫を称する一族は各地に残されており、かつ武田一族と混同されている場合もあるようです。
家康の家臣として知られる鳥居元忠は、関ヶ原の戦いに際して、伏見城で壮絶な最期を遂げたことでも知られますね。

鳥居元忠/wikipediaより引用
不死身の鬼美濃――その勇名ゆえに、映像化作品でも錚々たる面々が演じてきた馬場信春。
これからも様々な作品で彼の活躍を願う方は少なくないでしょう。
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【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
高野賢彦『甲州・武田一族衰亡史』(→amazon)
他





