松平康福

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』田沼意知の妻の父・松平康福とは?意次の老中仲間が宣告した「義絶」

大河ドラマ『べらぼう』の第27回放送で、誰袖花魁の身請けが決まりながら、凶刃に斃れてしまった田沼意知

あまりの悲劇に視聴者の胸は深く抉られましたが、初回から意知をずっと見ていて、気になったことはありませんか?

若年寄りまでに上り詰め、齢30を超えているのに意知には正妻の姿が見えない――。

もしかして彼は独身だったのか?

いいえ、史実において妻子はいました。

劇中では描かれなかっただけで、代わりに妻の父親が同じ職場で顔を合わせる関係であり、実は初回からドラマに出ています。

相島一之さん扮する松平康福(やすよし)。

米の価格が2倍に跳ね上がったとき、その報告を田沼意次と共に聞いていた人物ですね。

目立ちはしないけれど、実は意次にとっては欠かせない。

松平康福は一体どんな人物だったのか?

田沼との関係を含め、その生涯を振り返ってみましょう。

 


「田沼の外戚の老中」として

松平康福(やすよし)といわれても、大半の方はピンとこないですよね。

番組公式の説明としては「田沼の外戚の老中」とあります。

歴史用語の「外戚」とは、簡単に言えば姻族関係であり、田沼意次は婚姻による人間関係を利用していました。

それが悪徳政治家という印象にも繋がりかねない要因でもありましたが、必要悪でもあったのです。

これについては田沼ならではの事情も考慮する必要があるでしょう。

八代将軍・徳川吉宗は、紀州藩主から将軍となりました。

徳川吉宗/wikipediaより引用

幕閣には紀州人脈が登用され、田沼も元を辿れば紀州藩からやってきた、江戸においては新参者。

身分もさして高くなく、徳川家康まで遡る古参の家臣「三河以来」の者たちとは異なり、自身の政策を推し進めるためには新たな人脈形成を作らねばなりませんでした。

確かに田沼意次は、心配りのできるよくできた人柄であったとされます。

そうでなければ新参者の出世など叶わないでしょう。

そんな田沼意次にとって、松平康福は頼り甲斐のある「外戚」でした。

 


松井松平氏に生まれ、田沼意次とは同い年

松平康福(やすよし)の先祖は、松井忠次を祖先する松井松平氏にあたります。

享保4年(1719年)に浜田藩主・松平康豊の長男として誕生。

田沼意次とは同い年で、元文元年(1736年)に家督を相続すると、幕閣で二人は顔を合わせる機会に恵まれます。

同い年の二人は、出世が順調な幕臣同士として、互いに認識を深めていったことでしょう。

しかし、幕臣同士として二人の距離は近いようで、生まれながらに康福にはあって、意次にはないものがあります。

石高です。

老中ともなると必要な石高があり、この点において、六百石の旗本からスタートした意次には超えねばならぬハードルとなりました。

寛延2年(1749年)、松平康福が奏者番に任命された前年、意次は小姓組頭と御用取次見習を兼任していました。

田沼意次/wikipediaより引用

それから9年後の宝暦8年(1758年)、加増によりようやく一万石を超えた意次が大名に名を連ねると、宝暦9年(1759年)、康福は寺社奉行兼下総古河に移封され、二人は晴れて大名同士の仲となりました。

しかし、その翌年の宝暦10年(1760年)、九代・徳川家重が引退してしまいます。

家重に取り立てられた意次は、普通なら主君の引退によって出世が止まり、次の治世に向けて側近人事は刷新されるところですが、実際はそうなりません。

十代・徳川家治のもとで引き続き、御用取次として留任されたのです。

この年、康福は大坂城代を務めると、宝暦12年(1762年)には三河岡崎へ移封となり、さらには西の丸老中に任命されました。

こうして大名家に生まれた康福の娘と、必死に成り上がっていった意次の嫡男が姻戚関係を結ぶ――身分からすればやはり異例なこと。

康福には、意次にとって必要な大名という格式がありました。姻戚関係になれば、そうした力を取り込むことに繋がります。

 


天明年間、田沼意次の姻族が幕閣中枢に

松平康福(やすよし)にせよ田沼意知にせよ、両者は共に順調な出世を遂げました。

とはいえ石坂浩二さんが演じていた松平武元など、幕閣の上には多くの重鎮がいます。

田沼意次と松平康福が前面に出るには時間がかかり、ようやくそのときが訪れたのは安永年間末から天明元年にかけてのことでした。

幕閣で亡くなる者が相次いだのです。

◆安永8年(1779年)老中首座の松平武元が死去

◆安永9年(1780年)老中の板倉勝清と阿部正允が死去

◆天明元年(1781年)松平輝高が死去

そして残った唯一の老中が松平康福であり、松平輝高の死を受け老中首座の座に就きます。

ただし、老中首座が兼任する慣例の勝手掛(財政担当)は水野忠元が就任。

いずれにせよ、その人事は、田沼意次の姻族関係者揃いとなりました。

松平康福:娘を田沼意次の嫡子・田沼意知に嫁がせる

久世広明:意次の外孫にあたる孫娘と、広明の孫が婚姻関係

水野忠元:意次の子である田沼意正を養子とする

牧野貞長:意次の孫娘が息子の妻

前述の通り、六百石の旗本から出世を遂げた田沼意次には、足元を固めておくためにも人脈を築かねばならない事情がありました。

それは外部から見ると、身内だけで利益を回すように思われても致し方ない状況でした。

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