伊達政宗の長男は、なぜ仙台藩主を継げなかったのか――。
明暦四年(1658年)6月8日は、そんな風に疑問を持たれることもある伊達秀宗の命日。
よほどの放蕩息子だったのか?といえば、さにあらず。むしろ忍耐を強いられる生涯を歩んだあと四国に領地をもらい、宇和島伊達家の初代藩主にまでなっています。
いったい何があったのか。

絵・小久ヒロ
伊達秀宗の生涯を振り返ってみましょう。
最初から難しい立場だった
伊達秀宗が、あの伊達政宗の長男であるにも関わらず難しい立場だったのは、側室から生まれたためです。
政宗の正室は田村氏出身の愛姫。

愛姫(陽徳院)/wikipediaより引用
秀宗の母は側室・新造の方(六郷伊賀守の娘)です。
長男である以上、家中では「若君」と見られる。
しかし正室に男児が生まれれば、その子が正式な後継者(嫡男)となる可能性が高い。
秀宗は生まれた瞬間から、微妙な立場に置かれていました。
当時は豊臣政権下であり、大名の子供たちは人質としての役割が求められるようになっています。
秀宗も例外ではなく、幼いころから豊臣秀吉のもとへ出され、後には徳川家康のもとへ。
父のそばではなく、天下人の都合に合わせて動かされる人生の始まりでした。
秀次事件と秀宗家督説
伊達秀宗の幼少期には、豊臣政権を揺るがす大事件もありました。
文禄四年(1595年)の豊臣秀次事件です。

豊臣秀次/wikimedia commons
秀吉と淀殿との間に豊臣秀頼が生まれたことにより、非常に微妙な立場に置かれた秀次。
その秀次が自害へ追い込まれてしまい、生前に交流があった伊達政宗もまた危険な立場に置かれます。
政宗サイドからは重臣の起請文を提出して弁明したり、あるいは伏見に屋敷を与えられて定詰を命じられたことが確認されています。
政宗は政治的に厳しい状況へ追い込まれ、幼い秀宗もまた無縁ではいられなかったんですね。
研究者の佐藤憲一氏は著書『伊達政宗の手紙』の中で、秀宗が豊臣・徳川の人質として過ごした時代に、政宗との確執が生じた可能性を指摘されています。
正室腹の忠宗が台頭し、仙台への道は閉ざされた
伊達秀宗の将来に決定打となったのは、弟の誕生です。
関ヶ原の戦い以前となる慶長四年12月8日(1600年1月23日)、政宗の正室・愛姫が男児を産みました。後の伊達忠宗です。

伊達忠宗/Wikipediaより引用
秀宗は長男ながら側室腹。
忠宗は二男で正室腹。
そんな状況に追い打ちをかけたのが「忠」の偏諱でしょう。忠宗は徳川秀忠から一字を受けて「忠宗」を名乗り、秀忠の養女・振姫との婚姻も進んだのです。
つまり忠宗は「政宗の二男」という立場ではなく、徳川政権から見て仙台伊達家の後継者として扱われる人物になりました。
結果、忠宗は後に仙台藩62万石を継ぐことになります。
秀宗は単純に「側室腹だから外された」のではなく、母の身分に加え、徳川家との婚姻、将軍家からの一字拝領といった要素が重なって弟への継承が固まったと見るべきでしょう。
幼いころから人質として過ごしてきた秀宗にしてみれば、納得し難い話だったかもしれません。
大坂冬の陣後 秀宗に宇和島十万石
慶長十九年(1614年)に起きた大坂冬の陣で、伊達政宗と長男・伊達秀宗は揃って出陣しました。
そこから秀宗の人生が再び大きく動き出します。
伊予宇和島10万石——現在の愛媛県宇和島市を中心とする領地が、秀宗に与えられたのです。
宇和島伊達家の始まりでした。
この宇和島十万石については、冬の陣の恩賞とする見方や、かつて政宗に約束されたという「百万石のお墨付き」への埋め合わせとする見方があります。
さらに近年発見された政宗の自筆書状から、冬の陣直前、本多正純に対して秀宗の待遇改善を働きかけていたことが明らかになっています。
『長年無禄で奉公している長男・伊達秀宗が侍従としての職務を果たせるよう知行を与えてほしい』
そんな趣旨であり、宇和島十万石は、突然降ってきた幸運とは言えないでしょう。
政宗が幕府中枢に働きかけた結果として、秀宗は独立大名への道を得たのです。
研究者の佐藤憲一氏は著書『伊達政宗の素顔』で、政宗を「筆まめ」な戦国大名として描き、その手紙から政宗の政治感覚と家族への配慮が見えることを重視しています。
この本多正純宛て書状も、まさにその一例ではないでしょうか。
山家清兵衛事件——政宗の目付と秀宗の衝突
宇和島に入った伊達秀宗を待っていたのは、すぐには自由になれない非情な現実でした。
政宗は秀宗を宇和島へ送り出すにあたり、補佐役をつけました。
山家清兵衛公頼です。
目付家老のような立場で、宇和島の支配を軌道に乗せるための存在でした。
秀宗から見れば、ようやく自分の領地を得たにも関わらず、すぐそばには父がつけた家臣がいて、家を支えながら自分を見張っているようにも感じたでしょう。
そんな関係はやがて破綻します。
元和六年(1620年)、山家清兵衛公頼は秀宗の命により、一族もろとも惨殺されたとされます。
政宗がつけた補佐役が、秀宗側に殺された――宇和島藩内の主導権争いであると同時に、政宗と秀宗の関係にも直結する問題でした。
知らせを聞いた政宗の怒りは尋常ではなかったとされます。

伊達政宗/wikipediaより引用
政宗は老中・土井利勝に対し、今の秀宗では大名にふさわしい政道を保つことが難しいとして、宇和島十万石の返上まで願い出ました。
本気で処分しようとしたのか、幕府へのけじめとして強い姿勢を見せたのか。
断定はできませんが、この事件が宇和島伊達家の存続に関わる重大事だったことは間違いありません。
ではこの危機はどうなったのか?
土井利勝の仲裁で、宇和島伊達家は残った
危機を収めたのは、他ならぬ老中・土井利勝でした。
利勝は、政宗の心中を汲みながらも、若輩ゆえの無分別から生じたこととして見逃してはどうか、という趣旨で仲裁に入ります。

土井利勝/wikipediaより引用
結果、伊達秀宗は宇和島十万石を失わずにすみました。
政宗と秀宗の間で劇的な和解が結ばれたわけではなく、幕府の仲裁によって伊達家内部の危機が政治的に処理されたのです。
すでに宇和島伊達家は、政宗個人の感情でどうこうなる存在ではなく、徳川政権の大名秩序の中に組み込まれていました。
★
秀宗の人生を並べると、どうしても「政宗の影に振り回された長男」に見えます。
実際、その側面は強い。
しかしそこで終わらせると秀宗への過小評価となってしまうかもしれません。
何より秀宗は宇和島伊達家の初代であり、仙台を継げなかった男でありながら、四国に伊達の名を残しました。
宇和島伊達家はその後も続き、幕末には「幕末四賢侯」の一人として知られる伊達宗城も輩出。

伊達宗城/wikipediaより引用
秀宗の宇和島入りは「政宗の長男救済」ではなく、もう一つの伊達家の始まりとなったのです。
天下人の人質となった長男が、やがて四国でもう一つの伊達家を託された――そこに伊達秀宗という人物の面白さがあります。
参考文献
- 佐藤憲一『伊達政宗の素顔―筆まめ戦国大名の生涯―』(2020年8月 吉川弘文館)
- 佐藤憲一『伊達政宗の手紙』(2010年1月 洋泉社)
- 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(2007年11月 吉川弘文館)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成〔増補第3版〕』(2024年10月 思文閣)
- 遠藤ゆり子『戦国大名伊達氏』(2019年3月 戎光祥出版)
