歴史はそんなエピソードで溢れていますが、中には【事実は小説より奇なり】というのが存在するのもまた現実です。
本能寺の変を知った羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、大急ぎで毛利との和睦交渉をまとめ、爆速で大移動した【中国大返し】もその一つでしょう。
信長が敗死したのが天正十年(1582年)6月2日。
その3日後となる5日(あるいは6日)に秀吉は備中高松城を出発したとされ、この中国大返しを経て、山崎の戦いに至り、明智光秀を倒すことになります。
流れがあまりにスムーズすぎて秀吉黒幕説まで流れるほどですが、実際の動きはどのようなものだったのか?
本能寺の変が起きる直前から、見て参りましょう。
※以下は中国大返しのルートです
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過酷な攻めで三木も鳥取も落としたが
当時、秀吉は毛利家その他中国地方の攻略を命じられていました。
”三木の干し殺し”や”鳥取の飢え殺し”といわれる兵糧攻めもこのときやっています。
直接血を流すことはないにしろ、凄惨さではどっちもどっち。
R18Gモノの記録が残っていて、そっち方面の耐性がないと気分が悪くなる方もおりますので、ここでは割愛しますね。
歴女医まり先生の考察でご確認いただければと存じます。
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守る城方も、普通はある程度の備蓄をしていますので、兵糧攻めというのはちょっとやそっとの期間ではできません。
鳥取城では半年、三木城では1年以上かかっています。
この上さらに時間をかけまくると信長からどんなお咎めを受けるかわかりませんから、秀吉は調略その他の策も用いて攻略の速度を早めました。
そこで立ちはだかったのが備中高松城とその城主・清水宗治です。
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攻めあぐねているところへ毛利の両川が!
備中高松城は、湿地帯を利用した珍しいタイプのお城。
周辺はぬかるみだらけで騎馬や歩兵が攻めにくく、さらに兵数も充分なことから城側の士気も高く、さすがの秀吉も攻めあぐねます。
しかもここを落とされると後がないため、毛利輝元以下、毛利の両川こと吉川元春と小早川隆景を含めた4万もの援軍が向かってきていました。
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一方、秀吉が率いていたのは3万ほど。
毛利方の援軍が来れば頭数だけでも不利な上、城兵の士気はさらに上がり、苦戦すること必至でした。
そこで、秀吉は奥の手に出ます。
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