結局、前田利家と佐々成政は激突したの?
大河ドラマ『豊臣兄弟』第35回で描かれた小牧・長久手の戦いでは、秀吉と家康の争いが各地へ飛び火。
全国の諸将でも争いが起きていたと説明され、北陸地方では利家と成政が槍を握り「やったるぞ!」と鼻息荒くするシーンもありました。
しかし、放送ではそこまで。
何ら説明がなかったのでモヤモヤしている方もいらっしゃるかもしれません。
織田信長に仕え、柴田勝家のもとで共に働いていた二人は、実際どうなったのか?
小牧・長久手の戦いにおける北陸戦線に注目してみましょう。
秀吉は北陸に二人を残していた
羽柴軍が柴田勝家に勝利した「賤ヶ岳の戦い」のあと、秀吉は織田家の領地を独自に配分しました。
越中は佐々成政の領有がそのまま認められ、前田利家には旧領の能登に加えて、加賀の石川・河北両郡が与えられています。

前田利家/wikipediaより引用
隣り合わせに置かれた二人ですが、立場はまったく違いました。
賤ヶ岳の戦い後、秀吉についた利家が所領を増やしたのに対し、成政もいったんは秀吉に従いながら、やがて距離を置くようになったのです。
もっとも、すぐに戦が始まったわけではありません。
成政は天正十一年(1583年)の暮れから翌年正月なかばまで京に滞在し、陸奥守任官の御礼を述べるため参内しており、このころの越中はまだ平穏でした。
そして天正十二年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると、秀吉は北陸へ手を打ちます。
成政からの攻撃に備え、加賀金沢の前田利家は国元に残留。
越前府中の丹羽長秀にも同じく守りを命じたのです。

丹羽長秀/wikimedia commons
戦線が膠着していた9月8日、秀吉は利家の息子・前田利長へ「越前の丹羽長秀が近日中に出撃するので落ち度のないように」と書き送りました。
また『温故足徴』には、秀吉が「越後の上杉景勝との取り決めがあるので、成政が攻めてきても軽率に動くな」と伝えた旨が記されています。
要は、前田・丹羽・上杉の三方で成政を動けなくする算段です。
秀吉と家康が尾張で睨み合っている間も、北陸ではキッチリ成政を封じ込める網が張られていました。
成政は大軍で末森城に迫った
そんな秀吉の包囲網を、先に破りにいったのは佐々成政でした。
天正十二年(1584年)8月28日、成政は加賀・能登へ侵攻し、まず朝日山城へ向かいます。
こちらは城将の村井長頼が1500余の兵で守り抜くと、続いて9月9日、成政は大軍で末森城へ向かいました。
兵数は8000とも2万2000とも伝わります。

佐々成政/wikipediaより引用
末森城は加賀と能登を結ぶ要地にある。
もしも成政に押さえられれば利家の領国は南北に分断されてしまう場所だけに、城を守っていたのは、利家の信頼する家臣・奥村永福(おくむらながとみ)らでした。
城方は、佐々軍に三の丸まで攻め込まれながら、本丸に立て籠り、粘り強く援軍を待ち続けます。
兵力差を考えれば、落城は時間の問題にも見える状況。
利家は、このピンチに対してどう出たのか?
利家は一夜で末森城へ駆けつけた
末森城包囲の急報が金沢城の前田利家に届いたのは、9月10日(11日説あり)の昼ごろとされます。
利家は急ぎ準備を整え、約2時間後に出陣。
途中の津幡城で軍議を開き、その日のうちに末森城へ急行します。

末森城跡/wikipediaより引用
そして翌日の明け方、利家は鍾馗図(しょうきず)の幟をはためかせながら、末森城を攻める佐々軍の背後に襲いかかりました。
鍾馗とは、疫病神を追い払う神であり、その旗が夜明けの戦場に立ったんですね。
結果、虚を突かれた佐々軍は敗れ、越中へ撤退していきます。
佐々軍で佐々喜右衛門尉・野々村主水助・山下正久・斎藤九郎次郎といった武将が討死すると、勝った前田軍は翌日にはもう金沢へ帰陣しました。
わずか二日の出来事でした。
成政の娘は粟田口で磔にされたと伝わる
秀吉に背いた佐々成政には、戦場とは別の悲劇も伝わっています。
成政の離反を受け、人質として預かっていた次女と乳母が、京の粟田口で磔刑に処されたと伝わるのです。
ただし典拠は後世の『越登賀三州志』で、日付も9月4日説と16日説がありますが、追い打ちはこれで終わりません。
上杉方が越中境まで攻め入って放火すると、9月18日には土肥政繁ら越中の国衆が、前田利家との連携を求めました。
西の前田と東の上杉に挟まれ、窮地へ追い込まれた成政。
織田信雄へ書状を送り、窮状を訴えます。

織田信雄/wikipediaより引用
家康も10月16日、不破直光への書状で、成政が信雄へ忠節を尽くすなら粗略には扱わないと伝えています。
このころの信雄も家康も、まだ秀吉と決戦するつもりでいました。
孤立した成政は秀吉に降伏した
しかし、その約1ヶ月後、信雄が秀吉と講和し、家康も兵を引いて和睦へ向かいます。
北陸に取り残された成政が、いわゆる「さらさら越え」で家康のもとへ向かったとされるのは、この直後のことでした。
詳細は以下の記事に譲りますが、
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さらさら越え|戦国時代に厳冬の北アルプスを徒歩で越えた佐々成政
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信雄の和睦により大義名分を失った家康が、すぐに再挙兵などできません。
それでも成政は、翌天正十三年(1585年)まで利家との戦いを続けました。
しかし同年8月、秀吉が大軍を率いて越中へ出陣すると、ついに降伏して越中の大部分を失います。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
前田利家と佐々成政の激突は、北陸のローカルな私闘ではありません。
利家は秀吉が張った成政包囲網の一角であり、成政は家康が頼みにした反秀吉勢力の一人でした。
末森城で成政が敗れたことにより、家康の反秀吉包囲網は北陸側から崩れ始めたのです。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目された池田家の動向や豊臣秀長の改名については、以下に関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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参考文献
- 花ケ前盛明編『佐々成政のすべて』(新人物往来社)
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)



