戦国史を現代風に大胆アレンジして楽しむマンガ『戦国ブギウギNEO』の第35話は奇妙丸こと織田信忠に注目!
ご存知、信長の嫡男で織田家の家督を継ぐことになります。
と、その前に実績を積んでこい!ということで信長から命じられたのが、松永久秀のこもる信貴山攻め。
よく知られたエピソードと共に漫画で振り返ってみましょう!
奇妙丸

◆幼名が「奇妙丸」だった信長の嫡男・織田信忠。
戦国武将の幼名には魔除けや長寿を願う意味を込めた例があり、現代人には奇妙に見える名も珍しくありません。
信長が息子の風貌を見て名づけたという話も伝わりますが、由来を裏づける確かな史料はありません。
なお、信忠は武将として戦場で活躍する一方、能(当時の猿楽)を自ら舞うほどの愛好家でした。
後世の史料『当代記』では、その腕前を「手前見事」と評されるほどだったと伝えられます(ただし信長は怒っていました)。
いざ信貴山

◆天正五年(1577年)、松永久秀は織田信長に背き、大和の信貴山城へ籠城しました。
討伐軍の総大将に任じられたのが織田信忠です。
明智光秀や丹羽長秀、羽柴秀吉、筒井順慶などの主力が加わり、大軍が編成。
大和と河内を結ぶ信貴山城は重要拠点だったので、絶対に失敗は許されない戦いだったので、大々的に派兵されたのでしょう。
足の爪

◆筒井順慶は大和の有力国衆で、松永久秀と長く大和の支配を争っていました。
島左近こと島清興は、のちに石田三成の重臣として関ヶ原で名を馳せますが、それ以前は筒井氏に仕えた武将とされています。
ただし、信貴山城攻めで左近がどの作戦を担当したかを示す確実な史料はありません。
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みかん

◆天正五年(1577年)10月、信貴山城で織田軍に攻められた松永久秀は、城に火を放って自害しました。
名物茶釜「平蜘蛛」を信長へ渡すことを拒み、茶釜に火薬を詰めて爆死したという逸話は特に有名ですね。
しかし、それはあくまでエピソード。
史実として確認できるのは久秀が自害して、城が炎上したことです。
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上司の気遣い

◆明智光秀の娘では、玉が天正6年(1578年)に細川忠興へ嫁ぎ、後の細川ガラシャとなったことがよく知られます。
他に荒木村次や津田信澄との縁組も伝わり、光秀が織田政権内の有力家臣や一門との関係を広げていたことがうかがえます。
一方、信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)は、清須会議で有名ですね。
三法師が生まれるのは天正八年(1580年)のことで、もしも本能寺の変がなければ孫同士の結婚などもあったかもしれませんね……。
ということで、以下に織田信忠の関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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※著者・アニィたかはしの『大河ブギウギ豊臣兄弟編Youtube』はこちらから👇️
参考文献
- 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(1998年12月 中央公論社)
- 日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史』(2016年5月 吉川弘文館)
- 林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』(2005年4月 中央公論新社)
- 美味求真「天正10年5月19日 安土饗応における能の不手際への考察」
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「当代記」
- 国立国会図書館デジタルコレクション「史籍雑纂 第2(当代記収録)」
文:五十嵐利休




