徳川家康の息子に「武田」を名乗った人物がいたことをご存知でしょうか?
武田といえば、信玄と勝頼の二代にわたって家康を苦しめ続けた宿敵であり、三方ヶ原では家康が命からがら浜松城へ逃げ帰ったほどの相手です。
なぜ、その名字を実子に名乗らせたのか?
というと「名門・武田家の断絶を家康が惜しんだから」と説明されることもありますが、実はそう単純な話でもありません。
家康の五男・武田信吉(のぶよし)が継いだのは甲斐武田の本家ではなく、一門である穴山梅雪(あなやま ばいせつ)の家でした。
しかも当の信吉本人は1603年10月15日(慶長八年9月11日)、数え21歳でこの世を去っています。
いったい何があったのか。

徳川家康/wikimedia commons
宿敵の名を背負わされた武田信吉の生涯を振り返ってみましょう。
母は穴山梅雪の養女だった
武田信吉は天正十一年(1583年)9月13日、遠江の浜松城で生まれました。
幼名は万千代(まんちよ)。
母は下山殿(しもやまどの)と呼ばれた女性で、もとは武田家臣・秋山虎康(とらやす)の娘です。
彼女は、武田家滅亡後、穴山梅雪の養女という形で徳川家康のもとへ嫁ぎました。
このときの家康の心中はどうだったのか、気になりますね。
なんせ梅雪は、母が信玄の姉、妻が信玄の娘・見性院(けんしょういん)という、武田一門の重鎮。

穴山信君(穴山梅雪)/wikipediaより引用
しかし、天正十年(1582年)に織田・徳川軍が甲斐へ攻め込んでくると、梅雪は勝頼から離反して織田・徳川方につき、家康の与力(指揮下の武将)とされます。
信玄の甥であり娘婿でもある梅雪の離反ですから、勝頼にとってはたまったものではありません。
ただ、その梅雪も、同年6月の本能寺の変直後、堺から本国へ戻る途中で一揆に襲われて命を落としました。
家康が伊賀を越えて三河へ逃げ帰ったルートとは別の道を選び、梅雪だけ討たれてしまったのですね。
梅雪の養女と家康の縁組も、穴山家が家康の与力とされた関係から結ばれたものと考えられています。
わずか5歳で穴山家の跡継ぎに
梅雪の死後、穴山家は嫡男の勝千代(かつちよ)が継ぎ、家康の保護下に入りました。
勝千代の母は見性院。
つまり信玄の孫にあたりますが、

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons
穴山家はそもそもが武田の一門であり、勝千代も「武田」を名乗っていました。
天正十五年(1587年)6月、その勝千代が16歳で急死してしまいます。
跡継ぎを失った穴山家を、家康は一体どうしたのか?
研究者の平山優氏は著書『徳川家康と武田勝頼』の中で、武田家の断絶を惜しんだ家康が、下山殿の子・万千代に家を継がせ、家臣団は穴山衆がそのまま担ったと記しています。
武田信吉は数えでまだ5歳。
つまり家康の五男が名乗った「武田」は、信玄の本家をそのまま再興したというより、武田一門・穴山家の名跡だったのです。
◆穴山武田家の当主
穴山梅雪……天正十年(1582年)本能寺の変の直後に死去
↓
武田勝千代(梅雪の嫡男)……天正十五年(1587年)16歳で急死
↓
武田万千代(家康の五男)……数え5歳で武田家を継ぐ
江戸時代の系図類には、家康が信玄にあやかって「武田七郎信義」と名付けたという話も載っています。
幼い当主の後見役となったのは、梅雪の未亡人である見性院。

絵・小久ヒロ
家康の息子を信玄の娘が見守るという、なんとも不思議な巡り合わせとなりました。
前田家と上杉家への婿入り話も消える
天正十八年(1590年)、家康が関東へ移ると、武田信吉は下総小金(こがね・千葉県松戸市)に3万石を与えられました。
翌年10月には、母の下山殿がまだ25歳の若さで死去。
文禄元年(1592年)には下総佐倉へ移るも、当時の信吉は10歳前後ですから、目立った働きは伝わっていません。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでも出陣はせず、江戸城の留守を任されました。
すでに数えで18歳。
兄の松平忠吉が井伊直政とともに先陣を務めたことを思えば、天下分け目の大舞台で留守番とは、少々寂しい扱いですよね。

松平忠吉/wikipediaより引用
信吉はもともと病弱だったといわれます。
それが関ヶ原へ出陣しなかった理由なのかどうかは不明。
一方、信吉には縁組の話が次々と持ち上がっていました。
秀吉の取り成しで、正室・寧々の甥にあたる木下勝俊の娘を妻に迎えたとも伝わりますが、本当に結婚まで至ったのかどうかはハッキリしていません。
慶長四年(1599年)、家康が加賀の前田利長を従わせようとした際には、信吉を利長の養嗣子にする案も浮上。
関ヶ原後の慶長六年(1601年)、会津の上杉景勝を従わせる際には、景勝の養女(直江兼続の娘)の婿養子にする案まで検討されました。
しかし、いずれも実現していません。
実現しなかった理由は明らかではありませんが、家康が有力大名家を従属させる局面で、信吉を養子候補にしていたことが分かります。
水戸に入ってわずか1年足らずで死去
慶長七年(1602年)、関ヶ原で西軍寄りと疑われた佐竹氏が秋田へ移封になり、空いた常陸水戸に武田信吉が入りました。
石高は15万石とも20万石ともいわれます。
佐倉時代から一気に跳ね上がる大抜擢であり、家康がこの五男に期待をかけていたこともうかがえますね。
信吉の家臣団には、小金時代から仕える穴山衆に加え、甲州衆や木曽衆も付けられ、旧武田家臣をまとめて我が子に預けた格好です。
それなのに、です。
水戸に入ってわずか1年足らずの慶長八年(1603年)9月11日、信吉は病で亡くなってしまいました。
享年21。
子がなかったため穴山武田家は断絶し、水戸の領地はわずか2歳の異母弟・徳川頼宣(よりのぶ)に引き継がれます。

徳川頼宣/wikipediaより引用
なお、信吉については意外な事実もあります。
本記事ではここまで「信吉」と呼んできましたが、研究者の黒田基樹氏は編書『戦国大名の新研究3 徳川家康とその時代』の中で、元服後も幼名の万千代を使い続けていたと見ています。
同書によれば、武田の名字を名乗っていたと確かめられるのは関ヶ原までで、その後は松平に改めた可能性もあるとか。
同時代の史料に「信吉」という実名が見えないまま、数え21歳で生涯を閉じたのです。
その後、水戸には頼宣の同母弟・徳川頼房(よりふさ)が入り、ここから徳川御三家の一つ、水戸徳川家が始まったことはよく知られますよね。

徳川頼房/wikipediaより引用
水戸藩士には、信吉のもとにいた武田遺臣の子孫が多かったといわれます。
家康の五男が継いだ穴山武田家は途絶えましたが、それを支えた家臣たちは水戸藩の中で生き残ったのです。
本人にとって、宿敵の名字はあまりに重すぎる荷物だったのかもしれません。
なお、家康が旧武田家臣をどのように取り立てたのか、また同じく若くして亡くなった四男・松平忠吉については、以下の記事を併せてご覧ください。
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家康が旧武田家臣を重用した理由|信玄や勝頼と死闘を繰り広げたからこそ
続きを見る
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松平忠吉(家康四男)の生涯|関ヶ原の活躍で10万→52万石へ大出世も28歳で
続きを見る
参考文献
- 黒田基樹編『戦国大名の新研究3 徳川家康とその時代』(2023年4月 戎光祥出版)
- 平山優『徳川家康と武田勝頼』(2023年5月 幻冬舎)
- 菊地浩之『徳川家臣団の系図』(2020年1月 KADOKAWA)


