藤原広嗣の乱

藤原広嗣/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

藤原広嗣の乱が“式家”を没落させる|エリート貴族が反逆者となった理由

2024/09/02

天平十二年(740年)9月3日、藤原広嗣の乱が勃発しました。

名字からわかる通り、藤原氏の一員が起こした反乱です。

乙巳の変(大化の改新)からまだ100年弱。

藤原氏であれば、朝廷でエリート貴族LIFEを堪能していてもおかしくなさそうですが、なぜこんな物騒なことをやったのでしょうか?

 


純友の乱と勘違いせぬように

まずは

・藤原純友の乱(939-941年)

と混乱してしまわないようにご注意ください。

※以下は藤原純友の乱まとめ記事となります

藤原純友の乱
海賊と共に暴れ回った藤原純友の乱|なぜ貴族が瀬戸内海で略奪行為を働いたのか

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純友は、藤原北家出身のエリートでしたが、約200年も時代が後のことですので、比較するようなもんでもありません。

純友の方は、どちらかというと

平将門の乱(939-941年)

とセットで語られますので、合わせて記憶された方が理解もしやすいでしょう。

平将門
なぜ平将門の乱は起き誰が鎮圧した?今も皇居前に首塚が残っている理由

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てなわけで今回は、広嗣の方を見てみましょう。

 


藤原四家(しけ)とは?

藤原氏というのは、言うまでもなく非常に強大な一族です。

初代・中臣鎌足(大化の改新で中大兄皇子に協力した人)がこの姓を賜ったことにはじまり、その息子・藤原不比等(ふひと)の子供である四兄弟がそれぞれ独自の家を起こしました。

姓はみんな「藤原」で、概ね屋敷のあった場所や役職などに由来する通称がついています。

それが以下の通り。

◆藤原武智麻呂(むちまろ)

→藤原南家の開祖

◆藤原房前(ふささき)

→藤原北家開祖

◆藤原宇合(うまかい)

→藤原式家開祖

◆藤原麻呂(まろ)

→藤原京家開祖

兄弟の生まれた順に従って、上から南家・北家・式家・京家と呼ばれています。

ここから先は、さらに枝分かれしたり別の名字を名乗ったりして、数多の公家となり、平安時代は藤原ビッグバン!で最盛期となるわけですが、知名度で言えば北家がダントツですね。

あの藤原道長も北家の嫡流であり、この一族は、とにかく政治的に最も成功していた系統ですから、他にも多くの有名人が多くいます。

藤原道長
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南家も北家ほどではありませんが、歴史に名を残している人が多いですね。

主に歌人や詩人、学者など、文化方面で名前が出てくることがあります。

残りの式家と京家は?

というと……残念ながらあまり目立った活躍をした人はいません。

京家は、子供の数が少なく政略結婚に不利だったとか、他人の罪に連座させられてしまって失脚したとか。辛いエピソードが目立ちます。

そして式家。

今回の主役・藤原広嗣がまさに没落の根源でした。

 

式家2代目の没落

実は、不比等の息子たち藤原四兄弟は、同時期に疫病にかかり、同じ年に次々に死亡するという不思議な出来事がありました。

そこで重責を担ったのが若い世代たち。

藤原広嗣もその一人であり、式家の二代目でした。

そんな若手エリートがなぜ乱などを起こすのか? まず、そこまでの流れを一言で説明しておきますと……。

「元皇族・橘諸兄(たちばなのもろえ)との政争に負け、大宰府に左遷されたのが気に食わないので、むしゃくしゃしてやった!」(超訳)というものです。

4兄弟が病気で軒並み倒れた後、朝廷は皇族出身の橘諸兄が政権の中心を奪取しておりました。

橘諸兄は、父の美努王(みぬおう)が敏達天皇の息子とされる方ですので、敏達天皇から見て孫にあたりますね。

諸兄は僧・玄昉や吉備真備といった優秀な知識人を配下に従え、権勢を振るっていたのです。

そこで政争に敗け、九州の大宰少弐へと左遷させられたのが藤原広嗣でした。

 


藤原広嗣の乱で九州への警戒強まる

藤原広嗣は諦めきれませんでした。

このころ都では疫病やら災害やらが頻繁に起きており、

「諸兄軍団が諸悪の根源ですよ! アイツらどうにかしないと神様が鎮まりませんって!」(超訳)

という上表文を提出。

同時に「口で言ってもわからないなら殴る!」という考えになってしまい、「隼人(はやと)」と呼ばれる九州の人々を味方につけて武力挙兵したのです。

兵を集めた広嗣は、軍を3つに分け、北九州の【登美・板櫃(いたびつ)・京都(みやこ)郡】の三鎮を目指します。

これに対し朝廷は、全国から兵士を集めて、征討軍を派遣。

将軍・大野東人(おおのあずまびと)が率いて関門海峡を渡ると、またたく間に三鎮を制圧し、広嗣軍相手に大勝利を収めます。

大野は東北の多賀城にも赴任していたのですが、そのときは広嗣のお父さんの弟(つまり広嗣の叔父さん)が上司でした。なんだか因縁めいていますね。

いずれにせよ戦いは中央政府軍有利に進み、ほどなくして広嗣は捕縛&斬殺されて乱は終了しました。

かくして広嗣の蜂起&失敗により、直接、争乱に関係した人物が罰されるだけでなく、式家全体が権力を取り戻すことはないまま時代が進むことになります。

即座に血が絶えなかっただけまだマシかもしれませんね。

ただ、藤原広嗣の乱の心理的影響は大きく、その後、九州では太宰府ではなく、軍である鎮西府が置かれ、同地方への警戒心が高まります。

なお、橘諸兄はこの後、藤原仲麻呂の台頭により、勢力を失います。

仲麻呂は、藤原武智麻呂(藤原南家)の息子で、この仲麻呂も後に事件を起こすのですが、きりが無いので今回はこの辺で。


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【参考】
国史大辞典
藤原広嗣の乱/Wikipedia
藤原広嗣/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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