天平十二年(740年)9月3日、藤原広嗣の乱が勃発しました。
名字からわかる通り、藤原氏の一員が起こした反乱です。
乙巳の変(大化の改新)からまだ100年弱。
藤原氏であれば、朝廷でエリート貴族LIFEを堪能していてもおかしくなさそうですが、なぜこんな物騒なことをやったのでしょうか?
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純友の乱と勘違いせぬように
まずは
・藤原純友の乱(939-941年)
と混乱してしまわないようにご注意ください。
※以下は藤原純友の乱まとめ記事となります
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純友は、藤原北家出身のエリートでしたが、約200年も時代が後のことですので、比較するようなもんでもありません。
純友の方は、どちらかというと
・平将門の乱(939-941年)
とセットで語られますので、合わせて記憶された方が理解もしやすいでしょう。
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てなわけで今回は、広嗣の方を見てみましょう。
藤原四家(しけ)とは?
藤原氏というのは、言うまでもなく非常に強大な一族です。
初代・中臣鎌足(大化の改新で中大兄皇子に協力した人)がこの姓を賜ったことにはじまり、その息子・藤原不比等(ふひと)の子供である四兄弟がそれぞれ独自の家を起こしました。
姓はみんな「藤原」で、概ね屋敷のあった場所や役職などに由来する通称がついています。
それが以下の通り。
◆藤原武智麻呂(むちまろ)
→藤原南家の開祖
◆藤原房前(ふささき)
→藤原北家開祖
◆藤原宇合(うまかい)
→藤原式家開祖
◆藤原麻呂(まろ)
→藤原京家開祖
兄弟の生まれた順に従って、上から南家・北家・式家・京家と呼ばれています。
ここから先は、さらに枝分かれしたり別の名字を名乗ったりして、数多の公家となり、平安時代は藤原ビッグバン!で最盛期となるわけですが、知名度で言えば北家がダントツですね。
あの藤原道長も北家の嫡流であり、この一族は、とにかく政治的に最も成功していた系統ですから、他にも多くの有名人が多くいます。
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南家も北家ほどではありませんが、歴史に名を残している人が多いですね。
主に歌人や詩人、学者など、文化方面で名前が出てくることがあります。
残りの式家と京家は?
というと……残念ながらあまり目立った活躍をした人はいません。
京家は、子供の数が少なく政略結婚に不利だったとか、他人の罪に連座させられてしまって失脚したとか。辛いエピソードが目立ちます。
そして式家。
今回の主役・藤原広嗣がまさに没落の根源でした。
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