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【藤原広嗣の乱】
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式家2代目の没落
実は、不比等の息子たち藤原四兄弟は、同時期に疫病にかかり、同じ年に次々に死亡するという不思議な出来事がありました。
そこで重責を担ったのが若い世代たち。
藤原広嗣もその一人であり、式家の二代目でした。
そんな若手エリートがなぜ乱などを起こすのか? まず、そこまでの流れを一言で説明しておきますと……。
「元皇族・橘諸兄(たちばなのもろえ)との政争に負け、大宰府に左遷されたのが気に食わないので、むしゃくしゃしてやった!」(超訳)というものです。
4兄弟が病気で軒並み倒れた後、朝廷は皇族出身の橘諸兄が政権の中心を奪取しておりました。
橘諸兄は、父の美努王(みぬおう)が敏達天皇の息子とされる方ですので、敏達天皇から見て孫にあたりますね。
諸兄は僧・玄昉や吉備真備といった優秀な知識人を配下に従え、権勢を振るっていたのです。
そこで政争に敗け、九州の大宰少弐へと左遷させられたのが藤原広嗣でした。
藤原広嗣の乱で九州への警戒強まる
藤原広嗣は諦めきれませんでした。
このころ都では疫病やら災害やらが頻繁に起きており、
「諸兄軍団が諸悪の根源ですよ! アイツらどうにかしないと神様が鎮まりませんって!」(超訳)
という上表文を提出。
同時に「口で言ってもわからないなら殴る!」という考えになってしまい、「隼人(はやと)」と呼ばれる九州の人々を味方につけて武力挙兵したのです。
兵を集めた広嗣は、軍を3つに分け、北九州の【登美・板櫃(いたびつ)・京都(みやこ)郡】の三鎮を目指します。
これに対し朝廷は、全国から兵士を集めて、征討軍を派遣。
将軍・大野東人(おおのあずまびと)が率いて関門海峡を渡ると、またたく間に三鎮を制圧し、広嗣軍相手に大勝利を収めます。
大野は東北の多賀城にも赴任していたのですが、そのときは広嗣のお父さんの弟(つまり広嗣の叔父さん)が上司でした。なんだか因縁めいていますね。
いずれにせよ戦いは中央政府軍有利に進み、ほどなくして広嗣は捕縛&斬殺されて乱は終了しました。
かくして広嗣の蜂起&失敗により、直接、争乱に関係した人物が罰されるだけでなく、式家全体が権力を取り戻すことはないまま時代が進むことになります。
即座に血が絶えなかっただけまだマシかもしれませんね。
ただ、藤原広嗣の乱の心理的影響は大きく、その後、九州では太宰府ではなく、軍である鎮西府が置かれ、同地方への警戒心が高まります。
なお、橘諸兄はこの後、藤原仲麻呂の台頭により、勢力を失います。
仲麻呂は、藤原武智麻呂(藤原南家)の息子で、この仲麻呂も後に事件を起こすのですが、きりが無いので今回はこの辺で。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
藤原広嗣の乱/Wikipedia
藤原広嗣/Wikipedia