【編集部】より
独自の視点と取材で精力的な出版活動を行っている桃山堂さん。
その代表作の一つである書籍『黒田官兵衛目薬伝説』を先日紹介させていただいたところ、各方面から反響があり、本日もう一作、担当編集の蒲池さんに緊急執筆していただきました。
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今回、ご紹介させていただくのは『豊臣秀吉の系図学』です。
どんな内容だったのかと申しますと、【秀吉の先祖が渡来系の鍛冶だった!?】とまぁ、戦国ファンには何とも心臓バクバクさせてくれるものでして。
何を根拠に申されているのかしら?
と、当然の興味を抱かれると思われたので、書籍のあらすじに触れていただいた、という次第です。
朝鮮から明へと勢力を拡大させようとした豊臣秀吉の背景には、我々の想像もつかない因縁があったのでしょうか。
以下【本文】へ。
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大和国にいた刀鍛冶の一族がその後
豊臣秀吉の母方の先祖は、応神天皇が国を治めていた五世紀ごろ、日本列島に移住した渡来系で、代々、刀鍛冶であった──という内容の系図があります。
旧家の蔵から発見されたとか、豊臣の子孫を自称する人が秘蔵する門外不出の史料というような面倒な事情はまったくなく、国会議事堂のそばにある国立国会図書館の古典籍資料室という古文書、古文献の担当部署に所蔵されています。誰でも閲覧できるオープンな史料です。
細かい説明は後回しとして、まずは、秀吉の母方を渡来人とする系図を見ていただきましょう。
この系図は、幕末生まれの国学者鈴木真年、中田憲信らが編纂した『諸系譜』という大部の系図集に掲載され、「太閤母公系」という表題がついています。
大和国(奈良県)にいた刀鍛冶の一族がその後、美濃国(岐阜県南部)に拠点を移し、秀吉の祖父の代になって尾張国の御器所村(名古屋市昭和区)に住むようになったという内容です。
どうして、秀吉の先祖が渡来人という話になるか。
というと、この系図で始祖とされている人物が、「佐波多(さはた)村主」の子孫であると注記されているからです。
坂上田村麻呂と同じ渡来人グループだって!?
村主(すぐり)とは、渡来系の氏族が称していた姓(かばね)。すなわち社会的な地位を示す古代の称号です。
物部連の連(むらじ)、藤原朝臣の朝臣(あそん)の類で日本史の教科書には「八色の姓」と出てたのをご存知かもしれません。
平安時代にまとめられた古代の氏族の系譜資料である『新撰姓氏録』によると、応神天皇のときですから、五世紀ごろ、朝鮮半島の混乱を避けて、阿智王という中国系(自称)の王族ともに日本に渡ってきた七つの氏族のなかに、佐波多村主の先祖がいます。
ほんとうに中国系かどうかは不確かですが、この一族は漢(あや)氏と呼ばれる古代氏族。朝廷における文書作成や財政管理の業務に重きをなし、のちには軍事的にも台頭、征夷大将軍となる坂上田村麻呂など有能な武人を輩出しています。
田村麻呂将軍と天下人秀吉が、同じ渡来人グループというのは気になる情報でしょう。
もっとも、秀吉の先祖かもしれない佐波多村主は、漢氏に仕える技術者集団のようですから、身分はずっと下。
『諸系譜』は、明治時代に編纂された系図集であり、史実である保証はまったくないのですが、この系図においては、秀吉の母方は代々の刀鍛冶の一族となっています。
鍛冶や製鉄など「鉄」にかかわる所伝が多い
歴史上のビッグネームのなかで豊臣秀吉ほど謎の多い人はいないかもしれません。
その出身階層については、農民、武士、職人、商人、さらには眉唾ですが天皇の御落胤説とかサンカや被差別民説というものまであって諸説紛々です。
NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』をはじめ、テレビや小説では「尾張の貧しい百姓の子」という設定が多いながら、それを裏付ける史料があるわけではないので、秀吉の出自については謎のまま、今日に至っています。
『豊臣秀吉の系図学』は、タイトルどおり、系図を手掛かりとして、謎多き天下人のルーツを探ろうという企画です。
成り上がりの武家の系図は信用できない、というのが通り相場なのに、「貧しい百姓あがりの秀吉の系図なんて、ニセ系図にきまっているじゃないか」という声が聞こえそうです。
確かにその通りだと思います。しかし、火のない所に煙は立たずという金言もあります。
そのため、今回は各地に伝わる秀吉のルーツにかかわる伝承や、加藤清正、正妻おね(杉原氏)の系図など、関係しそうなデータを徹底的に集めたところ、ひとつの傾向が見つかりました。
秀吉やその一族の先祖は、鍛冶や製鉄など「鉄」にかかわる所伝が多い――。
母方先祖を渡来系鍛冶とする『諸系譜』の系図は種々にある類似の伝承のひとつということです。
清正の父親はもともと武士で鍛冶の娘と結婚
たとえば、秀吉の母方の親類とされる加藤清正です。
宮内庁書陵部に唯一の写本がある『中興武家諸系図』(郵送で申し込めば閲覧可。申し込み方法は宮内庁ホームページにあります)の加藤清正の系図は、父親の清忠について「初め鍛冶を業とす」、祖父の清信については、二十五歳のとき眼病で亡くなると記しています。
現代においてもそうですが、鉄工にかかわる職人は火に目をさらすことが多く、眼病は深刻な職業病です。
祖父も鍛冶であったことをうかがわせる間接的な情報ですが、かえって説得力があります。
鍛冶の始祖神として信仰されている天目一箇神は、一つ目の姿だとされていますが、どうしてかというと、一種の職業病として片目を失った人が多かったからとも、片目で火を見て鍛冶作業をするからともいわれます。
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『系図纂要』は国学者の飯田忠彦が編纂者と言われており、その中で清正の父親はもともと武士で、鍛冶の娘と結婚したと書かれています。
このように清正の系譜が鍛冶にかかわるという系図や所伝は枚挙に暇がないほどですが、さりとて、これが史実と断定できる史料はなく、ここにも「鉄」をめぐる系譜の謎が存在しています。
おねのルーツ大垣市には金生山という鉄鉱石鉱山がある
国立国会図書館所蔵の『諸系譜』には、秀吉の正妻おね(杉原氏)の系図もあり、尾張に移住するまえ、美濃国の市橋、現代の地図のうえでは、岐阜県大垣市と池田町の市(町)境あたりに住んでいたと記されています。
大垣市には古墳時代にはじまると考えられている有名な鉄鉱石鉱山があり、金生山という山の名前がついています。
金生山の「金」はゴールドではなく、金属・鉄を示すカネのことです。
おねの先祖がいたとされる市橋は、鉄鉱石鉱山の北のふもと。黒田官兵衛と並んで、「秀吉の軍師」と俗称される竹中半兵衛の先祖も、このあたりに住んでいたという系譜伝承があります。
この地で採れるのは赤鉄鉱という赤色の鉄ですが、その色によって、赤坂の地名を生じ、現在の地名に残っています。
金生山は古代の製鉄文化の中心のひとつと目されています。
しかし、日本列島における鉄原料が次第に砂鉄に移行したことによって、戦国時代、江戸時代には鉄産地としては廃れています。
それが第二次世界大戦の前後、国内に鉄鉱石資源が求められた時期に再開発され、近代製鉄の原料として利用されていました。
福岡県北九州市の八幡製鐵所(新日本製鐵を経て現在は新日鐵住金が運営)に輸送されていたのですから、世界の中で見れば小規模とはいえ立派な鉄鉱石鉱山です。
さすがに鉄鉱石は枯渇してしまいましたが、現在も石灰石を採取する現役の鉱山。露頭の土はオレンジ色で、かつて鉄の山であった名残がうかがえます。
秀吉とのかかわりで注目されるのは、おねの先祖をはじめとして、金生山の近辺に豊臣一族の先祖がいたという伝承が散見されることです。
関が刀工の集住地となるまえ、美濃鍛冶の多くはここ赤坂に集まっていました。
秀吉の母方が先に紹介した『諸系譜』の系図のとおり、美濃の刀鍛冶であったならば、この地にいた可能性があります。
その系図で秀吉のイトコとされている青木一矩(秀以)の名字の地は、金生山のすぐ南側にある青木であるともいわれています。
もうひとつ、付け加えるならば、金生山の近くの長松には、少年期の秀吉が陶工の修行をしていたという伝承があり、『絵本太閤記』などに書かれています。
やきもの産地ではないのでほとんど相手にされていない伝承ですが、陶工と刀工の誤伝だとすれば、注目すべき情報となります。
秀吉生誕伝説もある草野 近くには鉄砲鍛冶で知られた国友村も
秀吉をめぐる謎のひとつは、父親がどのような人物かほとんど不明であることです。
弥右衛門という名が伝わっていますが、天下人となった秀吉が父親を供養し、顕彰した痕跡もありません。
とはいえ、秀吉の父方系図はいくつか伝来しており、共通しているのは、秀吉の曾祖父にあたる人物が近江国浅井郡(滋賀県長浜市)から尾張の名古屋に移住したとする点です。
父方系図のひとつとして『塩尻』という有名な随筆のなかの秀吉系図を取り上げています。
作者の天野信景は、博聞強記の国学者ですが、職業的な学者ではなく、尾張藩に仕える武士でした。
歴史、文学、天文地理、宗教、風俗についての文書を膨大な断章として残し、没後、『塩尻』の表題をつけてまとめられています。
長浜市には草野という集落があり、古来、鍛冶で有名なところですが、この地に秀吉にまつわるひとつの伝承があります。秀吉はこの地で生まれ、少年のころ、草野の鍛冶屋で奉公していたというのです。
草野は戦国時代、全国屈指の武具の生産地で、とくに「草野槍」と呼ばれた槍が有名でした。
江戸時代以降は農家で使われる鍬や鎌などを製造する野鍛冶に転じています。
明治時代のはじめの記録によると、百十軒の鍛冶屋があったといい、滋賀県内はもとより岐阜県をはじめ他県にも得意先を持っていたそうです。
現在の地名でいえば、長浜市鍛冶屋町あたりです。
すでに産業としての役割は終えていますが、鍛冶場の施設は保存されており、定期的に実演も披露されています。
草野神社では秀吉が祭神の一柱として祀られ、神社から歩いて一、二分のところにある源五郎屋敷跡が秀吉の鍛冶修行の場所と伝承されています。
草野の鍛冶集落から草野川に沿ってくだると、七キロメートルほどで国友です。
ここには戦国時代から江戸時代にかけて多くの鉄砲鍛冶がいて、大阪の堺とともに二大産地となっていました。
近江の草野で秀吉が生まれたという話は史実としてはにわかに信じがたいことですが、鍛冶屋集落を中心として、この地域には濃厚な秀吉伝承があり、草野神社では今も秀吉が神として祀られています。
なぜ、秀吉は鍛冶屋の神となったのか──。伝承が史実かどうかとは別の次元で、秀吉のルーツを考えるうえで、重要な情報であると思えます。
系図作成の動機は人それぞれ 見極めが肝要也
『豊臣秀吉の系図学 近江、鉄、渡来人をめぐって(→amazon)』著者の宝賀寿男は、日本家系図学会、家系研究協議会という在野の研究者団体の会長を兼務しており、系図研究の世界のご意見番です。
現役の法律家(弁護士)であり、もとは大蔵省(現在の財務省)のキャリア官僚、富山県の副知事を務めたこともあります。
幕末生まれの系譜学者、鈴木真年の再評価の先駆けとなった『古代氏族系譜集成』(昭和六十一年刊行)の編著者であるといえば、系図に関心のある方なら、ぴんと来るかもしれません。
著者の系図研究に対する基本姿勢が、第一章の冒頭とあとがきに書かれているので、最後にそれを紹介させていただきます。
【第一章】
「豊臣秀吉の系図の話をしようとすると、『どうせ偽系図だろう』と言われることがあります。秀吉の直系は絶えているので、公認の系図は伝来していません。
「出所不明の豊臣系図を持ち出してきて、それを土台に調査を進めても、砂上の楼閣そのものではないか」
本書を準備する過程で、そうしたご指摘もいただいています。
しかし、有名な大名や公家に伝来する正統な系図であっても、記載内容のすべてが史実であるかというと、そうとは言えないケースが大半です。
家柄の高低にかかわらず、系図は誤りの情報を伝えることが多々あります。なぜでしょうか。
私たちは系図を読解して、歴史的な事実やその一族の原点を知りたいと思っています。だから、ウソが書かれていると迷惑です。
しかし当然のことながら、系図は未来の歴史研究者に活用してもらうことを考えて作成されたわけではありません。
朝廷や幕府、各藩で作成され、管理されていた系図もありますが、多くはそれぞれの家で作られ、所蔵され、伝えられていたものです。公的な性格より、私的な性格の強いものだということです。
系図作成の動機はさまざまです。
例えば、所領や家督相続の争いのとき、その証拠とするため。
あるいは武士が仕官するとき、出自を証明するため。
女性が嫁入りの際、生家の来歴を証するため。
いずれのケースにおいても、歴史的な事実を記録することよりも、自家の利益や名誉が優先されるので、もっともらしい虚偽の記載が紛れ込み、時代を経て、いつのまにかそれが史実であるかのような誤解が生じるのです。
系図は一度、書き上げれば終わりというものではなく、その保持者の都合に応じて、絶えず書き改められます。虚偽や誤解が入り込む機会は、系図が作成された後、いくらでもあったと疑ってかかるべきなのです。
秀吉にかかわる系図には、誰が何のために作ったのか、よくわからないものが少なくありません。一般の系図より、さらにやっかいな問題を抱えているということになります。
系図研究のポイントは、記述内容のうち、どの部分が信用でき、どの部分に疑問があるかということを個別に見きわめることです。
信頼できる一級史料(書状や日記など史実性の高い史料)と照らし合わせるのが基本ですが、もちろん、そう簡単にはいきません。
文献だけに頼るのではなく、苗字の由来となる地名、その土地の来歴、一族にまつわる伝承や祭祀、習俗などにあたる必要があります。
秀吉関係の系図については、多くの場合、系図そのものの史料価値に疑問があるのですから、多方面からの総合的なアプローチはとくに有効であるはずです。
『豊臣秀吉の系図学』の編集にあたっては、可能な限り関係する現場を取材し、地理的な環境や地域の伝承を調査しています」
【あとがき】
「歴史というものは、その時々に暮す人々が活動し、それによってつくりあげられ積み重なっていく、大きな流れのようなものです。歴史学者の勝手な論理や思い込み、あるいは後世の倫理に都合のいいように、歴史が動いてきたのではないのです。ひとりの男性とひとりの女性が結ばれ子どもが生まれ、やがてその子は成長し、新しい時代を切り開いていきます。ひとつの世代から次の世代へ。そのような人と人の結びつきや反発などの中で、いろいろな事件が起き、私たちが歴史と呼ぶ何かが形成されていきます。
そうした世代の連なり、一族と一族の関係性を端的に記録したものが、系図および系譜関係の史料群です。当事者の虚偽工作や後世の改変などもあって、系図史料の記載は虚実混交しており、きわめて扱いづらいものです。しかし、地理学、民俗学、宗教学などの知見を踏まえた総合的な問題意識をもち、沈着冷静な目で、合理的に系図と接するならば、背景となる歴史事情や当時の人間関係などについて、有意義な情報を私たちに物語ってくれるはずです」
ネットで史料を照らし合わせながら楽しむことも
『豊臣秀吉の系図学』では、秀吉およびその一族にかかわる多くの系図を紹介していますが、その大半はインターネット上で閲覧できます。
インターネットで見ることができる場合は、該当の箇所がわかるよう、具体的に紹介しています。
例えば、本書の中で、『美濃国諸家系譜』にある竹中家譜[東大史料 第6冊 0400.tif ]と書かれている場合、東京大学史料編纂所のウェブサイトの「所蔵史料目録データベース」のページで、「美濃国諸家系譜」を検索、第六冊を選んで、0400.tif 以降の画像を閲覧すれば、竹中半兵衛重治の系図を見ることができます。
系図は虚実混淆した史料で、読み手による解釈が大きな比重を占めています。
本書で述べていることもひとつの解釈ですので、ぜひ、インターネットで公開されている系図関係の史料を見ながら、本書を読み進めていただければと思います。
『豊臣秀吉の系図学』では触れていないことですが、秀吉、親族の加藤清正には、土木や建築の技術に精通しているという共通点があります。
最近の研究では、加藤清正は財務や経済にたけた武将であったことがクローズアップされており、虎退治の荒くれ武者のイメージはなくなってきました。
秀吉も数理・算術に強かったといいますが、もしかすると、それは二人のルーツにかかわることなのかもしれません。
古代においては、土木・建築の分野も、朝廷の財務管理も、渡来系の技能集団が活躍する舞台だったからです。
さて、加藤清正は秀吉が朝鮮半島へ攻め入ったとき、司令官的な重責を担っています。
大規模な戦場での指揮経験が豊富であったとはいえない加藤清正が、なぜ、朝鮮半島での戦いの最前線に立たなければならなかったのか──。
『豊臣秀吉の系図学』から見えてくる新たな謎です。
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宝賀寿男『豊臣秀吉の系図学 近江、鉄、渡来人をめぐって』桃山堂
文/蒲池明弘(桃山堂株式会社編集者)
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