天文七年(1538年)3月13日、鍋島直茂が誕生しました。
九州の戦国武将であるこの鍋島直茂。
生涯を通じてややこしい人間関係に悩んだ感があり、晩年に近づいては【化け猫騒動】なるトラブルに巻き込まれてしまいます。

鍋島直茂/wikipediaより引用
本日は直茂の生涯を見ながら、化け猫騒動についても触れていきましょう。
龍造寺とイトコであり義兄弟であり
前述の通り、戦国期ド真ん中の天文七年(1538年)に生誕した鍋島直茂。
幼い頃に主家である龍造寺家兼(龍造寺隆信のひいじいちゃん)の命令で別の家に養子にいきました。
すると、養子先と主家が敵対関係になったため戻されています。
このときのイザコザで死人が出ているので、巻き添えを食わなくてよかったのかもしれません。
次に、主君である龍造寺隆信の母親が直茂のお父さんに再嫁したため、主君と義理の兄弟になりました。
直茂の生母が隆信のお父さんと兄妹(姉弟説もアリ)だったので、元々従兄弟でもあったのですけどね。
隆信は一度国を追われていたりして周囲に信用できる人が少なかったので、直茂の存在はかなり頼りにしていたようです。
大友家との戦いでは直茂の意見が採用されて見事勝利を収めることができましたし、龍造寺家の足元である肥前の他家を支配下に入れたり、活躍ぶりも期待に見合った、あるいはそれ以上のものでした。
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主君に疎まれたまま沖田畷へ
しかし、隆信がその猜疑心の強さゆえ、家中を粛清しまくるようになると、鍋島直茂への態度も冷たくなっていきます。
「酒やアバンチュール(死語)はお控えください」(意訳)
直茂のこうした諫言も聞き入れられず、むしろ煙たがられたと言います。
そしてそんな状態でついに迎えたのが、龍造寺家vs島津家のハイライトである【沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)】です。
大軍だった龍造寺軍が、少数の島津軍・有馬軍と対峙したこの戦い。
圧倒的有利だったはずだったのに、戦の鬼神・島津家久を相手にして木っ端微塵、ボロボロにやられてしまいます。
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直茂はこのときも隆信のそばにはいられなかったようで、それが結果的に彼の命を救いました。
龍造寺軍の多くが、島津軍の”釣り野伏せ”やその後の追撃で戦死し、しかも主君の龍造寺隆信まで討ち取られるという大惨事まで発生。
辛くも逃げ帰ることができた直茂は、主の首の受け取りを拒否するという「よく、考えるとそれまずくね?」的な手段で島津家への反抗心を明確に示します。
それが島津家には「骨のある奴よ」と見られたらしく、一時、島津の傘下に入ったときにある程度の立場を保つことができました。隆信涙目。
秀吉も気を遣う(?)ほど関係が危うくなりつつ…
とはいえ、元々が一大名だった家が、他家の傘下に収まったままでは納得できませんよね。
龍造寺家では、隆信の子・政家が能力的にも健康的にも頼りなかったため、鍋島直茂が音頭を取って方針を固めていくことになります。
そして「関白、九州来るってよ」(超訳)という話を聞きつけた彼は、島津へは恭順したフリをしながら、豊臣秀吉へも連絡。
この辺いかにも戦国武将らしくてワクワクしますね。
その腹黒さ……もとい先見の明が秀吉に気に入られ、主家とは別に領地を与えられた上、関白お墨付きで龍造寺家を取り仕切るように命じられます。
はい。もはや主君が誰だかわからなくなってきました……。
一応、秀吉も気を使ってなのか。先に政家へ、その後に直茂と息子・鍋島勝茂に豊臣姓をあげています。
が、家中としてはその程度で心が穏やかにはなりません。
「アイツ下克上したいんだよ、関白まで利用してずるいなあ」
そんな見方をする人も出てきました。
中には「政家様を毒殺しようとしている!」とまで言う輩もおり、直茂は起請文まで出して噂を否定しています。
起請文とは、神様へ宛てて「これこれを誓います。破ったら罰を当ててください」と書いた文書のことですね。「嘘ついたら針千本」のエクストリーム版みたいな感じです。
朝鮮出兵の時には直茂を信頼した将兵も多かったそうですが、まさか「異国に主君を行かせる訳にはいかないけど、直茂ならいいや」なんて意味ではないと……思いたいですね。
江戸幕府も鍋島家を重用すると、驚くべき行動に!
その後、豊臣秀吉が死亡。
関ヶ原の戦い前夜では、東軍の勝利を予測して徳川家康への誼を通じるべく色々と動きました。
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仲の悪かった長男・勝茂は当初西軍についてしまったのですが、鍋島直茂に「今からでも家康につけ」と言われてその通りにし、九州の西軍を叩いたことで何とかお咎めなしになっています。えがったえがった。
そして関が原が終わって江戸幕府ができると、ついに龍造寺家との関係に終止符が打たれます。
幕府が「もう龍造寺より鍋島のほうが信頼されてるんだし、正式に譲ったことにしなよ」(超訳)という方針になり、隆信の弟たちも「それでいいです」と言ったことから穏便に済むかに見えました。
しかし!
政家の子・龍造寺高房は納得しません。
「お前、無能だから家臣に領地を渡すように」なんて言われたも同然で、簡単には納得できないですよね。
「おうらみ状」
ただし、このとき高房が取った手段がいただけません。
この人は鍋島直茂の養女を妻にしていたのですけども、その女性を殺した上で自分も死のうとしたのです。
要するに抗議の無理心中ですね。
そこまでするほど領地を譲るのがイヤだったということですが、当然のことながら直茂はムッとしました。
このときの『おうらみ状』という手紙が有名です。
『おうらみ状』
「私は龍造寺家の皆さんに誠意を尽くしてきたつもりなのですが、これはいったい誰に対するあてつけなのですか。
話し合えばいいことじゃないですか。
これじゃお家が本当に断絶してしまいますよ。
今からでも遅くないので、直接お話をするつもりがあるならどうぞ」(超略)
しかし、この手紙を読むか読まないかのうちに高房は再び自害、今度こそ本当に亡くなってしまいました。あーあ。
直茂もこれでは強行策に出られないと感じたのか。亡くなるまで自分で肥前藩主の座につくことはありません。
そのため、肥前藩の初代藩主は鍋島勝茂ということになっています。

直茂の息子にして肥前藩初代藩主・鍋島勝茂/Wikipediaより引用
「現役の戦国武将だった人が初代藩主ではない」という例はいくつかありますが、こういう遠慮でそうなったのは珍しいですね。
直茂や勝茂を祟った「鍋島化け猫騒動」
しかし世間はその遠慮をなかなか認めなかったらしく、鍋島直茂の死因について一騒動あったと言われています。
【鍋島化け猫騒動】と呼ばれるものです。
簡単にいえば「高房の飼っていた猫が飼い主の恨みを晴らすため化け猫になり、直茂や勝茂に祟った」という内容でした。

歌川国芳画『梅初春五十三駅』/Wikipediaより引用
直茂が亡くなったのは81歳という長寿ながら、耳に腫瘍ができ、激痛に苦しみながら亡くなったということから「高房の祟りじゃないか」と考えられたのでしょう。
一度、人心を失った家が領地だけ取り戻したところで、家臣はともかく領民が懐いたかどうかはアヤシイ気がしますけども。
秀吉は直茂のことを「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気が足りない」と評していたそうです。
大気とは空気のことではなく心の広さのことで、高房とのやり取りを見ると「た、確かにそうかも……?」と否定しきれませんね。
養女を嫁がせた辺りで話し合っておけば、もうちょっと穏便に済んだかもしれないのになぁ。
人付き合いって難しい。
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【参考】
国史大辞典
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
鍋島直茂/Wikipedia






