天文五年(1536年)6月10日は【花倉の乱(はなくらのらん)】の決着がついた日。
今川家で起きたお家騒動で、方ノ上城(かたのかみじょう)や花倉城を攻めた今川義元が勝者になりました。
地図で示すと以下の通り、現在の静岡県焼津市に位置しています。
勝者の今川義元と言えば、2021年の大河ドラマ『麒麟がくる』では片岡愛之助さん、2023年『どうする家康』では野村萬斎さんが演じて注目されましたよね。
この義元は【花倉の乱】にて、兄の玄広恵探に勝利して今川家の当主となります。
今回はそこに至るまでの経緯などもあわせて振り返ってみましょう。
※以下は今川義元の関連記事となります
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは
続きを見る
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
血筋からして義元があとを継ぐのが道理だが……
そもそも今川家は、室町幕府将軍家である足利家の一門の中でも格の高い家です。
いざというときには将軍も輩出できますし、正式に駿河の守護に任じられておりました。
しかし、もろもろのトラブルで一族の争いが度々起こるようになり、少しずつ勢力が弱まっていました。
義元の父・今川氏親の代にはいったん落ち着いていたのですが、氏親の跡を継いだ長男・今川氏輝と、その後継者に決まっていた次男・今川彦五郎が急死してしまったために家中は大混乱。
二人が同日に亡くなったのはどう考えてもアヤシイということで、暗殺説もあります。
ともかく次の当主候補になったのが今川義元です。
血筋からして義元が継ぐのが道理でしたので、本来は起きるはずがなかったのが花倉の乱ともいえます。
他の側室生まれの兄も出家していましたし、氏親正室の子供では義元が一番上でした。
年齢順でいくと側室生まれの兄のほうが上にはなりますが、正室生まれの方が有利であり、そう簡単に序列はひっくり返せません。
外戚の福島家が横槍を入れてきた
しかし、当主に就任するため義元が還俗すると(義元も出家していた)、有力家臣の一部が大反発しました。
娘を氏親の側室に出していた福島家(くしまけ)が
「玄広恵探(げんこうえたん)も氏親様の子だし、こっちのほうが年長だし、家継がせてよ!」(超訳)
とゴネだしたことで話がこじれるのです。
どう見ても外戚だったジーチャンが権力を握る気満々。
こうして
「正室生まれの弟(義元)」
vs
「側室生まれの兄(玄広恵探)」
という構図ができてしまいます。
戦国時代あるあるですね。
ここで仲裁に入ったのが氏親の正室であり、義元の母である寿桂尼(じゅけい)にでした。
今川義元の生母である寿桂尼。
彼女は、時に「女戦国大名」と称されるほどの実力者です。
寿桂尼(義元の母)は信玄にも一目置かれた今川家の女戦国大名だった
続きを見る
しかし、今回の争乱鎮火は失敗に終わります。
長引けば不利と見たのか、福島家はこの年の5月25日に挙兵して強引に当主の座をかっさらおうとするのでした。
※続きは【次のページへ】をclick!