1814年(日本では江戸時代・文化11年)10月4日は、フランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーが誕生した日です。
「落穂拾い」「晩鐘」「種まく人」などの名画で有名な人ですね。
しかし、有名な芸術家にはよくあることで、あまり当人の生涯は知られていません。
まずはご本人の肖像画を拝見させていただくと……。
想像と違って、かなり厳つい!
この人物がいかなる経緯で、あの名画を描いていたか。
早速、その生涯を作品と共に振り返ってみましょう。
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もう二度と裸婦画なんて描かねぇ!
ミレーはフランス北西部・ノルマンディー地方の農村に生まれました。
そこそこ経済的に余裕がある家だったようで、パリの美術学校に通って絵を学び、26歳の時には初入選して少しずつ認められていっています。
しかし、この頃のミレーはお金がなく、すぐ収入を得るために裸婦画を多く描かなくてはいけませんでした。
いつの時代も三大欲求に関わるものは商売になりますからね。
そんなある日、ミレーはパリで散歩中、美術商の店の前を通りかかりました。
店頭にはミレーの描いた裸婦画がかけられており、それを眺める男が二人。
こんな会話をしていました。
「この絵は何て画家が描いたんだ?」
「ミレーってヤツさ」
すぐそばで本人が聞いているとも知らず、二人は会話を続けます。
「どんなヤツなんだ?」
「いつも女の裸ばかり描いているやつさ。きっと能がないんだ」
そしてあざ笑うかのように、二人は去っていきました。
これを聞いて大ショック!
お金のためとはいえ、裸婦画を描いているばかりでは他の作品が評価されなくなってしまう。
いつ頃の話なのかははっきりしないのですが、この一件以降、ミレーは裸婦画を描くのはやめたそうです。
その後、数十年してあの偉大な作品が生まれることになるわけですから、人類は、二人の男に感謝したほうがいいのかもしれません。
代表的な三作品はコチラ
さて、冒頭で書いた通り、ミレーの絵は日本で非常に有名かつ人気があります。
なぜかというと、彼が描いたのが主に「農民」だったからです。
今でもフランスは先進国かつ農業国ですし、当時の日本からすれば親近感を覚える構図だったのでしょう。
せっかくなので、代表的な作品の背景などもまとめてみました。
・落穂拾い
おそらくミレーの絵で一番有名な作品でしょう。
歴史の授業だとひたすら暗記させられるため「あのタイトルの絵、どれだっけ?」となりやすい美術作品の中でも、タイトルと実際の絵が記憶の中で合致できる、数少ない絵ではないでしょうか。
一見掃除でもしているかのような絵――実は当時の社会福祉にも似た事情が隠されています。
この「落穂」というのは、一度麦を刈った後、畑に散らばって落ちている穂のことです。
見方を変えれば、歩留まりとでもいえましょうか。広い畑になればなるほど、その数はバカにできないものになったでしょう。
しかし、当時は畑の主が落穂を全て回収することはありませんでした。
何故かというと、そうした落穂は、働けない人や未亡人、あるいは孤児など、貧しい人のために残しておくという習慣があったからです。
旧約聖書から来ている風習なので、この絵は宗教画という面もあります。
・晩鐘
これもキリスト教の影響が見られる絵です。
昔は教会の鐘が時報として使われていたので、一日の始まりも終わりも鐘の音によって決まっていました。
特にこの絵に描かれているような貧しい農民にとっては、その日一日を無事に過ごせたという感謝をする時間でもあったでしょう。
そして、次の一日もまた何事もなく過ごせるように祈っていた――。
余談ですけども、私もこの絵を見る機会がありました。
どえらい人だかりであまり近くで見られませんでしたが(´・ω・`)
思ったより小さいキャンバスに、画面の小ささよりもずっと広い空間や存在感を感じたのをよく覚えております。
どうしても見たい絵があるときは、朝一で行かないとダメですねー。
・種まく人
植えるというよりダイナミックに種をまいてる人物が印象的な絵ですね。
ほとんど同じ構図で二枚存在することでも有名です。一枚はアメリカのボストン美術館、もう一枚は日本の山梨県立美術館にあります。
山梨県立美術館はアメリカの美術愛好家がずっと保管していた「古い塀」という作品を2億円弱で購入したこともあるのですが、県のお偉いさんがよほどミレーを好きなんですかね。
公式サイトには「農業県山梨にふさわしいから」と書かれています。
同館では70点もミレーの作品を所蔵しているので、どう考えてもそれだけじゃないですよね。いつか詳細を伺いたいなぁ。
有名作品は大半がバルビゾンでのもの
最後にミレーの私生活についても見ておきますと……。
結婚は27歳のときにしており、最初の奥さんは3年で亡くなってしまいました。
その後、同棲相手との間に子供が生まれたものの、正式な結婚はずっと後、35歳でバルビゾンという村に移り住んでからのことです。きっかけはパリでコレラが流行ったからだとか。そりゃ怖いわ。
この頃のフランスはまだ共和制と帝政の間で揺れ動いておいましたので、そういった意味でもパリから引っ越したのは正解だったと思われます。
ミレーが57歳のとき(1871年)、フランスは【普仏戦争】に負けてパリを占領されてますからね。
実は、ミレーの代表作は、上記の三点を含め、ほとんどバルビゾン移住後~晩年のものだったりします。ここは今も品のいい田舎町という感じなので、ミレーも居心地がよかったのかもしれませんね。
ミレーは亡くなるまでバルビゾン村に住み続け、現在でもアトリエが残されています。
他にもミレーと同じように、この村や農民を描いた画家が何人かおりまして、彼らのアトリエとともに公開されているようです。
バルビゾンは昭和天皇と香淳皇后が訪れたこともありますし、日本の旅行会社がツアーを組んでいたりもするので、フランスの田舎を見たいならうってつけの場所といえそうです。
実際に歩いてみれば、ミレーや他の画家がこの地を愛した理由がよりはっきりとわかるかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
ジャン=フランソワ・ミレー/Wikipedia