大河ドラマ『光る君へ』で財前直見さんが演じる藤原寧子。
ご存知、藤原道綱母をモデルとする道綱の母であり、ドラマの第14回放送で、夫の藤原兼家が亡くなるときは、長年連れ添った男女の、二人だけにしかわからないような深い愛情を感じさせてくれました。
そこで、こんな違和感を抱いた方もいらっしゃるかもしれません。
藤原道綱母がモデルならば、兼家のことを憎んでたんじゃないの?
おそらく『蜻蛉日記』を踏まえての感想でしょう。
彼女が記した同著の中で兼家の悪口はたくさんでてきますし、実際、兼家がクズ男であることもありありと浮かんできます。
しかし、男女の仲とはそう単純なものではないようで。
兼家を憎むだけでなく深い愛もあり、まさにメロドラのようなドロドロの愛憎劇となっていて、だからこそ今でも十分に面白い。
いったい『蜻蛉日記』には何が書かれているのか?
それを著した藤原道綱母とはどんな女性だったのか?
長徳元年(995年)5月2日は彼女の命日。
その生涯を振り返ってみましょう。
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なぜ「◯◯の母」という名前なのか
韓国で社会現象を巻き起こし、日本でもベストセラーとなった小説『82年生まれ、キム・ジヨン』には仕掛けがあります。
女性名がフルネームで書かれているのに対し、男性は「父」「弟」と固有名がついていないのです。
女性名を呼ばず「母」「娘」と呼ぶことが根強く残っている韓国社会。
その慣習を「ミラーリング」(男女を逆転させることで際立たせる手法)したものであり、歴史上の女性名までそうなっていると韓国の読者に気付かせる仕組みになっていました。
同様のことは日本でもあてはまります。
紫式部にせよ、清少納言にせよ、父の官職名を含めた女房としての名前であり、あくまで“誰かの娘”として認識されている。
藤原道綱母も、そのままズバリ「藤原道綱の母」です。
息子の道綱は母ほどの文才はない人物で、藤原実資から「自分の名前くらいしかわからない程度」と酷評されるほど。
歌合せでは「母が代作したんだろう」と言われたことすらあります。
この母と子は、男女間の不均衡を示す典型例でしょう。
ではなぜ道綱母は『光る君へ』で「藤原寧子」という名前となったのか?
あくまで推測ですが、父・藤原倫寧(ともやす)からの命名であり、北条時政と政子と同じパターンとなりますね。
大河ドラマの女性名は脚本家が自由につけます。寧子というのは、なかなか手堅いパターンの命名といえるでしょう。
日本史に名を残す美女ベストスリーにランクイン
「本朝三美人」という言葉があります。
日本の美女ベスト3という意味であり、この手のランキングになると定番の小野小町は入らず、以下の通りとなります。
かつては衣通郎姫ではなく、藤原延子 (藤原頼宗女・後朱雀天皇女御)が入っていました。
こうした美女伝説は、写真もない時代ですからエピソードで伝えられます。
衣通郎姫は悲恋伝説がそうであり、光明皇后は仏教への帰依と、権力欲があると評されたこと。
いわば周辺が語り継いだ伝説あっての存在となりますが、藤原道綱母は『蜻蛉日記』著者であることが大きい。
いわばセルフプロデュース型の美女であり、「こんな憂鬱な文章を書く作者は美女であればよい」という願望が彼女を伝説にしていったのでしょう。
道綱母は苦悩を記すことで美女となった、なかなかすごい女性です。
序文で「それほどの美女でもなく、しっかりした考えもないけれど」とわざわざ記しているにも関わらず、皆の心に残る存在となるなんて素晴らしいではありませんか。
実際、文才に長けた彼女は「三十六歌仙」と「百人一首」にも選ばれております。
違和感はあるけれど、彼を受け入れたあの日
藤原道綱母は承平6年(936年)頃に生まれたとされます。
父の藤原倫寧はせいぜいが受領クラスで、さしたる身分の生まれとは言えない。
それでも彼女の美貌と知性の噂が都に広まっていたのか、歳も19を迎えるころになると、求婚もちらほらと届くようになります。
そんなとき、26歳のハイスペ男子からアプローチがありました。
右大臣・藤原師輔の三男である藤原兼家です。
これには一家あげて大興奮。兼家からそれとなく話を持ち出された父の藤原倫寧は「とんでもないことで……」と動揺したとされますが、内心は『よっしゃー!』と浮かれたことでしょう。
しかし、です。当人である道綱母の『蜻蛉日記』によると、「思えば初手からまずかった」と言いたげです。
気の利いた侍女にでも手紙を持たせればよいのに、兼家は従者に門を叩かせた。
しかも手紙がイマイチ。便箋からして事務的だし、文字だってどうにも雑……。
当時の姫ともなれば、いきなり返事をしたりはしませんので、道綱母が迷っていると、母がせっつきます。
偉い相手を待たせたらいけない――母にプレッシャーをかけられ道綱母は返信するのでした。
そんな儀礼的なやりとりでも、相手は熱心に距離を詰めてきます。
両親のハートも掴み、いわば外堀を埋められるようにして、やがて結婚へ向かう道綱母……というと、いかにも「相手がしつこいから仕方なく」という印象になりますが、この記述はあくまで後年に彼女視点で書かれた回想です。
言い訳というかアリバイというか、要は本心をごまかしている可能性はなきにしもあらずです。
だたし、手紙の紙がイマイチだとか、筆跡が雑だとか、細かいところまで覚えているのは、兼家に対してどこか違和感があったからこそ記憶していると言えるでしょう。
こうした感情は、いつの時代も普遍性があるのかもしれません。
現代でも「サイゼリヤ論争」があります。女性とデートへ行くのにイタリアンチェーンレストランでいいのか?というSNSで定番の話題ですね。
目的達成のためならば、コスパ重視でいいだろう。それで断る女っておかしくないか?
そんな合理的な意見をビシバシと展開する人はいますが、そこには決定的に欠けているものがある。
相手の「感情」を思いやる気持ちです。
なんでも効率だのコスパだの言い募り、そこしか見ない相手は棘を残すことを道綱母は訴えている。
そりゃね、どんな紙だって書かれる内容は同じかもしれないけどさ、右大臣家ともなれば高級紙を用意できるでしょうよ。
筆跡だって効率的にササっと書いた結果が、雑な感じになったのでは?
侍女を経由してのやりとりは非効率的だから、従者に門を叩かせればいい。どうせ私の家なら、右大臣の息子が門を叩けばどうにでもなると理解してそうするんでしょう?
でもね、そうじゃないんだな!
といった訴えを、彼女はしているようにみえる。だからこそ『蜻蛉日記』は今にも通じるのです。
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