徳川継友

雪景色の名古屋城

江戸時代

将軍になれなかった尾張藩主・徳川継友|ドケチ評価はさすがに可哀想だ

2024/11/26

享保十五年(1730年)11月27日は、尾張藩の第六代藩主・徳川継友(つぐとも)が亡くなった日です。

尾張藩は家格的には高いのですが「御三家で唯一将軍を出せなかった家」だったりします。

また、将軍候補になりながら、念願を果たせなかった継友自身の評判も、決して高いものではありません。

しかし、そうなってしまった理由も「そこまで言うのはさすがに可哀想じゃない?」と思えなくもなかったりして……その経緯を見て参りましょう。

 


40人以上いた兄弟たちの大半が夭折

徳川継友、もともと跡継ぎになるはずのない存在でした。

父で三代藩主の徳川綱誠(つなのぶorつななり)が子沢山過ぎたので、継友の上に男兄弟が何人もいたのです。

実に十一男という立場。

しかし、この時代の乳幼児死亡率の高さはハンパではありません。

無事に生まれてくればまだいいほうで、いざ生まれても成人前に亡くなる子供はたくさんいました。

全部で40人いた継友の兄弟たちもまた、大半が幼くして命を落としてしまいます。

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そんなこんなで継友の順番が繰り上がり、正徳三年(1713年)、22歳のときに第六代藩主となりました。

江戸時代における武家の男子というのは、次男以下の場合は結構窮屈なもの。

婿養子先が見つかれば、その家で頑張ることもできますが、藩主に何かあったときのための「お控え」として、家にとどめ置かれる人も多かったといいます。

子供が増えまくると藩の財政が傾くので「結婚できず、また高禄も与えられず」という……人生の意義を問いたくなるような生活をしている人も珍しくありませんでした。

継友もそういった生活から一躍藩主の座をゲットしたので、最初はかなり喜んでいたようです。

しかし、喜びすぎて、次の藩主になるはずだった五郎太(継友の兄・吉通の息子)が亡くなった“翌日”に盛大な藩主就任パーティーを開いてしまい、家老に怒られています。そりゃ、そやろ。

 


七代家継の次は尾張藩からがよいのでは?

一方、将軍家でもこの頃、跡継ぎ問題が起きておりました。

ときの将軍は六代・徳川家宣

将軍になった時点で48歳になっており、当時の感覚としては「急いで跡継ぎを決めておかないと、何かあったときヤバイ」という年齢です。

家宣の息子は一人しか生き残っていませんでした。

徳川家宣/wikipediaより引用

そこで家宣は「私の次は鍋松(後の徳川家継)になるが、昔から幼君の世には問題が多い。こういうときのために御三家が作られたのだから、私の後は尾張家の吉通に任せたい」と言っていました。

しかし、側近である新井白石らが「私どもがしっかり鍋松様をお支えしますので、尾張家にお願いするには及びません」とゴリ押し。

結局、尾張家が将軍になることはありません。

その後、吉通が亡くなり、家継が七代将軍になってよかった……と思いきや、家継は病弱な体質のため、世継ぎをもうけるどころか、成人するかどうかも怪しいと考えられます。

そんなわけで「家継の次代を誰にすべきか?」という話に再び陥っていくのです。

我々後世の一般人からすると「最初から尾張家に頼んどけばよかったじゃん」と思ってしまいますが……。

尾張家は家格が一番高く、また血筋としても御三家の中では将軍家に最も近かったため、世間的には「もし将軍家に何かあれば、尾張家の人が将軍位に就くだろう」と考えられていました。

しかし尾張家の中では「ウチの藩主様が将軍になるとか勘弁」(超訳)という考えも強く、そのため幕閣や大奥などに働きかけていませんでした。

そこに、家宣の正室だった天英院が「次は紀州藩の吉宗殿が良いんじゃなくて?」と言ってしまったため、ものの見事に八代将軍は徳川吉宗に決まります。

 

吉宗もケチだが財政状況を回復

徳川継友の正室・安己君(あこぎみ)は近衛家の姫で、天英院にとっては姪っ子でした。

血縁関係を重視して政治をするのが常識な当時、天英院がなぜ姪の嫁ぎ先を推さなかったのか、ちょっと不思議ですよね。

これはおそらく、継友と吉宗の藩政をみて判断したものと思われます。

継友はその立場上、若い頃からお金をケチって溜め込む癖がついていました。

上記の通り、どこかへ養子入りすることもできず、少ない収入でやりくりしなければならなかったのですから、そういった癖がつくのも仕方のないことです。

吉宗も節倹に務めてなんやかんやの末に紀州藩主になっていますけれども、両者の違いは「藩主になってからどうだったか?」という点。

継友は領民からも「ケチな殿様」と言われる一方、吉宗はケチはケチでも、きちんと藩の財政状況を回復させたため「素晴らしい藩主様だ!」と高評価を得ていました。

徳川吉宗/wikipediaより引用

天英院はこの評判を聴き比べ「ただのケチより、実績を挙げている方に将軍職をお任せすべき」と考えたのでしょう。

また、上記の就任パーティーといい、継友には「そのタイミングでそれをやるのはマズイ」ということが度々あり、それもマイナスになったと考えられます。

江戸城では先代までの将軍の命日など、「お慎み」をしなければならない日がたくさんありますので、その辺の事情も懸念となったかもしれません。

朝廷からの使者を迎えることもありますしね。

一応、継友も財政再建のためにいろいろやっていて、成果も挙げているのですが……いかんせん比較対象が悪すぎました。

 


宗春に釣られすぎでは……

徳川継友が亡くなって、跡を継いだのは弟の宗春でした。

詳細は以下の記事に譲り、一言で特徴を申し上げますと「将軍様はケチれケチれとおっしゃるが、それでうまくいくなら苦労はせんわい!」とばかりに、吉宗の真逆を行く政治を行った”人です。

それが派手好みの尾張の人々にウケたものですから、相対的に継友の評判が下がりっぱなしになりました。

亡くなった後までディスらんでも……。

確かに宗春の政治で名古屋は一時好景気に湧いたんですけどね。

ただし、藩財政は改善しておらず、あまりに幕府に反抗的だったため宗春も引退へと追い込まれています。

継友が亡くなったとき39歳と早めなことも考えると、なんだか可哀相な点のほうが多いような気がしてきます。

豪遊して藩政を台無しにしたとかではないので、もう少し努力が認められてよいのではないでしょうか。


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【参考】
国史大辞典
二木謙一『征夷大将軍になり損ねた男たち トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史』(→amazon
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon
徳川継友/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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