1000年(日本では平安時代・長保二年)12月25日は、イシュトヴァーン1世がハンガリー王として即位した日です。
世界史でもたまにしか話題になりませんし、日本との関わりがあまりない国かと思いきや、実はそうともいいきれなかったりします。
では、早速見て参りましょう。
お好きな項目に飛べる目次
騎馬の扱いに長け、ヴァイキングと同様に恐れられていた
ハンガリーの国土は、「プスタ」という広大な平原を中心としています。
内陸国かつ平原ですから、海に囲まれている上に山がちな日本とは、真逆の地形ということになりますね。
この地形は、もちろんハンガリーの歴史に大きく影響を与えました。
ローマ帝国の時代、ハンガリーを中心とした地域は「パンノニア」と呼ばれていました。
その後ゲルマン人の大移動を始めとして、ゴート族・フン族などさまざまな民族がこの地に住み着いたり通り過ぎたりして、かなり初期から民族が入り交じる土地柄になっていったようです。
現在もハンガリー人の大多数を占めるマジャル人もいました。
マジャル人は、ウラル山脈~アゾフ海(クリミア半島の北東にある海。黒海の一部)あたりからやってきたといわれている民族です。
遊牧を営んでいたといわれています。
ですので、ロシア人などをはじめとしたスラヴ系ということもできますが、上記の通りハンガリーではかなり古い時代から相当数の民族が入り混じっていたので、単純に「マジャル人は○○系民族である」というのは難しいところです。
大平原で生まれた華麗なる馬術で東欧を席巻
マジャル人と並んでハンガリーの歴史に大きな影響を与えたのが、騎馬民族のオグール人です。
仮に「トーチャンの家系が遊牧民族で、カーチャンの家系が騎馬民族」とイメージすると、いかにも身体能力が高くて、馬の扱いに長けた子供が生まれそうな感じがしますよね。
事実、そのようにして生まれたハンガリーの人々は、騎馬による軍事力によって、ドイツ南部から東ヨーロッパを大いに蹂躙し、支配していきました。
その中心となっていたのが、アールパード家という家の人々です。
当時はヴァイキングと同様に恐れられていたそうですから、その力のほどがうかがえるというものです。海に行っても平原に行っても命が危ないだなんて、夢も希望もありませんね。
そうした状況が穏やかな方に向かうのは、キリスト教が伝わってからのことです。
戦争で東フランク王国(神聖ローマ帝国=ほぼドイツの元になった国)にアールパード家が負けたとき、それまでの自然崇拝から改宗したといわれています。
キリスト教が伝わったことにより、「俺たちも他のキリスト教徒のように、一つの国を作ろう」という動きが始まりました。国を作るためには協力が不可欠ですから、暴力の出番を引っ込めなくてはなりませんからね。
イシュトヴァーン1世 周辺国を支配下に置き大国を作る
イシュトヴァーン1世は、それから50年ほど経った頃の王様です。
彼は正式にローマ教皇に認められてハンガリー王となり、現在のスロバキアやクロアチア、ルーマニアなどを支配下に置く大国を作り上げます。
これによって彼の名は、ハンガリーの歴史に強く刻まれました。
これまた地図を見ていただくのがわかりやすいと思うのですが、この範囲ってめちゃくちゃ広いですからね。
海が少なくて交易しにくいのが玉に瑕ではありますが。
しかし、13世紀にモンゴルがヨーロッパ方面に侵略してくると、ハンガリーも他の東欧諸国同様に被害をうけることになります。西欧方面からすれば、ハンガリーは最前線にあたるわけですしね。
もちろんハンガリーの人々もガチンコ勝負だけではなく、城塞都市を築いて反抗を試みました。
結果として、1241年に起きたモヒの戦いによってハンガリー軍は壊滅し、ほぼ全域がモンゴルの支配下に入りましたが……このとき作られた都市は、その後も商工業で発展していきます。
モンゴルの支配の影響もあり、アールパード家はその後断絶してしまいました。
マリア・テレジアがハプスブルク家の主になると
その後はナポリのお偉いさんが王様になったり、ポーランド王とハンガリー王を兼ねる人が出てきたりして、比較的穏やかな時代が続きます。
また怪しい雰囲気になってくるのは16世紀のことです。
オスマン帝国との戦争で王様が戦死してしまい、ハンガリーの国内に王様になれる人がいなくなってしまったのです。
仕方なく、姻戚関係だったオーストリア・ハプスブルク家が王位を引き継ぎましたが、領地のほとんどはオスマン帝国のものとなりました。ややこしいですね。
17世紀末期に神聖ローマ帝国を主体とした対オスマン帝国の戦争(大トルコ戦争)で前者が勝ち、条約でやっとハンガリーの地はハプスブルク家のものになって、後世からするとわかりやすい感じになります。
ハンガリーの人々にとっては支配者が変わるだけなので、一時反乱を起こしたハンガリー人貴族もいましたが、さほど時を置かずに鎮圧されています。
ハプスブルク家時代のハンガリーについて最も有名なのは、マリア・テレジアとのエピソードでしょう。
当コーナーでも複数回お話していますが、マリア・テレジアがハプスブルク家の主になったとき、周辺諸国は「女の王・皇帝なんて認めねーよ!」として、戦争をふっかけてきていました。
元々戦争が得意でない上に、連戦で戦費も人も使い果たしつつあったハプスブルク家にとって、最後の頼みの綱になったのがハンガリーだったのです。
ハンガリーの人々に受け入れられ
支配者と被支配者、しかも民族が異なるということで、国民感情としては決して良い状態ではありません。
マリア・テレジアは生まれたばかりのヨーゼフ2世や家族と共にハンガリーを訪れ、ハンガリー女王として即位しました。
このとき、マリア・テレジアは24歳。
美しく堂々とした女王の姿に、まず好印象を抱いたハンガリー人も少なくなかったようです。
16人もの子を産んだ女帝マリア・テレジア 40年間に及ぶ女王生活の功績スゴイ!
続きを見る
そのまま彼女はハンガリー議会と交渉を行い、「我々を助けることができるのは、あなたがただけなのです」と熱心に説得。
数ヶ月の話し合いの後、ハンガリーの人々はこれを受け入れ、勇戦し、ハプスブルク家の主力軍としての立ち位置と名声を手に入れました。
「女主人のために命を懸ける騎士」というのはヨーロッパの騎士物語によくある話ですが、この場合「異民族である」「立場や経緯上、決して友好的ではなかった」にもかかわらずこうなったわけですから、胸アツの度合いがまた違いますね。
しかし、19世紀半ばにハプスブルク家の勢力がガタ落ちになると、ハンガリーも黙ってはいませんでした。
「妥協」を意味する「アウスグライヒ」体制
1848年に2月革命が起きた後から、ハンガリーの人々はたびたび独立のために動き、そのたびに鎮圧されるということを繰り返します。
とはいえ、いつまでも鎮圧はできないと考えたハプスブルク家の主フランツ・ヨーゼフ1世は、「ハンガリーの権力をもう少し高めて、おとなしくなってもらおう」と考えました。
ハンガリーの自治権を強め、自らオーストリア皇帝とハンガリー王を兼ねることで、オーストリア=ハンガリー(二重)帝国としたのです。
この体制を「妥協」を意味する「アウスグライヒ」とも呼びます。
このあたりからハンガリーでも資本主義が広まり、豊かになり始めました。
首都ブダペストには、世界で三番目に地下鉄が敷かれています。
第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー二重帝国は敗者になったことにより、ハンガリーでは「もうオーストリアにくっついてる必要なくね?」という考え方が強まり、独立を選びました。
しかし、周辺諸国に軍事力を追い越されていたため、この頃に大きく領地を減らすことにもなります。
まあ、独立当初からうまくいく国というのもありませんよね。
また、第二次世界大戦では枢軸国側についています。
しかし、敗戦のニオイがし始めた頃に王様が単独講和を試みてクーデターが起き、最後まで枢軸国の一員として戦い続けました。これが戦争末期にソ連の侵攻を招き、都市部の破壊や性犯罪といった被害も受けることになります。
似たような頃にムッソリーニを(物理的に)吊し上げて連合国側に寝返ったイタリアと比べると、まさに真逆の結果といえます。
位置関係なども関わってくるので、一概にハンガリー側の判断力がまずいとも言い切れないですけれども。
ハンガリーとオーストリアの解放をきっかけにベルリンの壁も崩壊
戦後のハンガリーは、ソ連の衛星国としていわゆる東側の一員となりました。
政治家の中にはスターリンに傾倒する人もおり、秘密警察も設けられましたが、国民の大多数は当然大反対。
1956年には「ハンガリー動乱(暴動・革命・事件とも)」と呼ばれるソ連への反抗事件が起きます。
このときは武力で鎮圧されて1万7,000人もの犠牲者を出してしまったものの、ハンガリー人のうち20万人は難民として国外に逃げ、社会主義を終わらせようという流れになっていきます。
その後しばらくの間「グヤーシュ・コミュニズム」と呼ばれる、生粋の社会主義よりは穏やかな方針が取られました。
「グヤーシュ」はハンガリーの名物料理で、ハンガリー人が遊牧生活をしていた頃から存在するといわれています。
メインはパプリカですが、他にもいろいろな具材を加えて作ることもあるとか。最も一般的な家庭料理でもあり、日本でいうところの味噌汁に近い存在なんだそうです。
つまり、「これからはソ連の言いなりになっているばかりじゃないぞ」という、ハンガリーの意思表示からつけられた名称ということができます。ただ単に美味しそうなだけじゃないんですね。
1980年代にはソ連でも共産党にほころびが起こり始めたこともあり、1989年にオーストリアとの国境にあった鉄条網を撤去。
ハンガリー・オーストリアの国境を開放するというだけでなく、東ドイツから西ドイツへの亡命を認めるという意味にもなり、ベルリンの壁崩壊と冷戦終結につながっていきます。
ハンガリーはある意味、冷戦を終わらせるきっかけを作った国でもあるわけです。
その後は共和制への移行、NATOやEU加盟などを経て現在に至っています。
とはいえまだまだ冷戦時代の爪痕は大きく、日本の1/4の国土に、東京都よりも少ない人口しかありません。
それでもチェコ・スロバキア・ポーランドといった縁の深い国々とともに「V4」として経済協力などをし、前に進んでいます。
2000年代からは日本もV4の国々と協力関係を作り、文化的な交流も行うようになりました。
「ハンガリーでは名字と名前の順番が日本と同じ」とか、某ムダ知識の泉で「ハンガリー(マジャル)語で”塩が足りない”は”シオタラン”」など。
言語に関するトリビアで話題になったり、ハンガリーにも温泉文化があったり、日本人にとってはいろいろと親しめるポイントがある国です。
今後ニュースで名前を聞く機会が増えてくるかもしれませんね。
長月 七紀・記
【参考】
イシュトヴァーン1世/wikipedia
ハンガリー/wikipedia
ハンガリーの歴史/wikipedia
外務省
「V4+日本」協力~21世紀に向けた共通の価値に基づくパートナーシップ/外務省
在ハンガリー日本国大使館