昭和十六年(1941年)1月22日は「最後の大名」と呼ばれた林忠崇(ただたか)が亡くなった日です。
見落としているかもしれませんのでもう一度言います。
「昭和」です。
西暦で言えば1941年に「大名」って、一体なんなんだ??? と思われることでしょう。
もちろん誤植ではなく、忠崇の生まれた年が嘉永元年(1848年)ですから、長命であれば非現実的な数字ではないですよね。
さすがに大名としては最後――そんな林忠崇の生涯を見て参りましょう。
お好きな項目に飛べる目次
幕府に忠誠を誓い、有事に備えた林忠崇
忠崇は、現在の千葉県木更津市あたりにあった請西(じょうざい)藩の藩主でした。
林家は室町時代から松平家に仕えていた譜代の家柄で、江戸時代には旗本として、引き続き徳川本家に仕えていました。
そして十一代将軍・徳川家斉の頃に林家の当主が気に入られて昇進、若年寄(将来の老中候補)となって貝淵藩(かいふちはん)が作られ、藩主となっています。
※以下は徳川家斉の生涯まとめ記事となります
子供を55人も作った11代将軍・徳川家斉 一体どんな治世だったんだ?
続きを見る
その後、家斉の死去や【天保の改革】などのすったもんだの末、藩の中枢を請西に移して「請西藩」と呼ばれるようになりました。
忠崇は請西藩の四代目にあたります。
おじである三代藩主が急死し、嫡男がまだ若いからという理由で中継藩主になったのですが、小さい頃から文武に優れ、幕閣にも気に入られて「将来は老中に」と期待されていたそうです。
慶応三年(1867年)に【大政奉還】が実行されると、忠崇は西洋式の武器導入や、それに伴う訓練などを行い、有事に備えました。
なぜ大政奉還が実施されても戊辰戦争が始まったのか~激突する西郷と慶喜の思惑
続きを見る
幕閣の覚えがめでたいということは、将軍にも知られていたわけで。
そうなると当然忠崇のほうも幕府の中枢に親近感や忠誠心を持っているわけです。
その状態で戊辰戦争が始まったので、いよいよ日頃の成果を発揮しようと意気込みました。
徳川慶喜が戦闘を放棄した!?
しかし、状況が急変します。
「(当の将軍である)徳川慶喜が戦闘を放棄して大坂から船で江戸へ逃げた」と知らされて判断に迷うことになったのです。
だから徳川慶喜を将軍にしたらヤバい! 父の暴走と共に過ごした幼少青年期
続きを見る
忠崇としては最後まで将軍に忠誠を尽くしたいと思っていましたが、それでは官軍に逆らうことになり、領民や藩士を巻き添えにしてしまうおそれがあります。
大将がトンズラしてしまい、幕府軍の勝利が見込めない状態で、敗軍の将だけでなく民がどんな扱いを受けるか……。
主君としては、そこを考えねばなりません。
熟考の末、忠崇はウルトラCの手段を取ります。
「俺は藩主をやめるぞ!」
なんと藩主自ら脱藩し、志を同じくする藩士数十名とともに幕府軍の遊撃隊に参加したのです。
なんというリアル無双。
「幕末無双」なんてゲームが出たら、主人公になってもおかしくありません(褒めすぎ?)。
※続きは【次のページへ】をclick!