明治・大正・昭和

朝ドラべっぴんさんモデル坂野惇子 ファミリア創業お嬢様の痛快ビジネス道

2016年の朝ドラ・べっぴんさんモデルとなった坂野惇子(ばんのあつこ)

2015年あさが来たモデル・広岡浅子が激しく燃える【動】の令嬢だとすれば、惇子はまさに【静】のお嬢様でしょう。

商売の拡大よりも、母目線でのデザインや品質に徹底してこだわり、後に皇室御用達にもなった子供服「ファミリア」を創業。

コストも無視した彼女たちの服作りは、一見、商売の原理に反していたかのようにも思えますが、その実、芯の強い方針に基づき、今なお広く愛される一流ブランドに育つのです。

一体、何がどうして、そのようなビジネスを成り立たせることができたのか?

坂野惇子の生涯と共に追いかけてみたいと思います。

 

実業家のお嬢様として誕生

惇子は、大正7年(1918年)4月11日、兵庫県神戸市で誕生しました。
父・佐々木八十八(やそはち)は、「佐々木営業部」を起こし、のちに「レナウン」創業者となった人物です。貴族院議員も務めたことがあります。

惇子はその三女にあたります(姉は13歳年上)。
坂野夫妻は我が子2人を病で失ったためか、惇子の体調管理に目を光らせていました。

朝夕2度の検温して、食事も家で作ったものしか食べさせない。
学校行事に使用人がついて来るほどの厳重っぷりです。

病弱だったとはいえ、惇子にとって親の気遣いは、時に重荷だったとか。

惇子はおっとりしていて、学校でも目立たぬよう、おとなしくしていました。
お気に入りのポジションは「2番」。控えめなお嬢様だったのです。

父・八十八は、過保護である一方、娘を進歩的にも育てていました。

良妻賢母型のおとなしい女性ではなく、男にとって一緒にいるのが楽しくなるような女性になれ、とばかりに生き生きと育てたのでした。

 

運命の出会いから婚約、結婚へ

1931年(昭和6年)、限られたお嬢様しか行けなかった甲南高等女学校に入学。
卒業する前年の1935年(昭和10年)、惇子16歳の時に運命的な出会いを果たします。

同級生と出かけた神戸のスキー場で、彼女の笑顔に見とれた甲南高等学校の男子生徒がいたのです。

坂野通夫という18歳の少年。
彼は、移動中にほどけていた惇子のリュック紐を結び直し、二人の最初の会話となります。

実は、このスキーグループデートで後に3組の夫婦が誕生しており、惇子と通夫もその1組となったのでした。

惇子は卒業後、東京市へ向かい、東京女学館高等科の聴講生として学ぶことになります。
そしてその間も遠距離恋愛は続きました。

1939年(昭和14年)、二人の婚約が成立。翌1940年(昭和15年)には結婚となります。
通夫が徴兵を免れたことも幸運でした。

夫妻が暮らす梅林は、外国人居住者が多いことで有名でした。

1942年(昭和17年)、長女の光子(てるこ)が産まれると、惇子はこうした外国人から育児のアドバイスを受けます。

「日本の育児は遅れていますね」

彼らはそう指摘し、西洋流のおむつやベビーベッドの作り方を教えてくれたのです。
これが、のちに惇子にとって大きな智恵となるのでした。

また、当時としては珍しく、通夫も、こうした妻の育児に協力してくれました。

「アツコ」
「父ちゃま」

そう呼び合う坂野夫妻は、理想的なカップルでした。

しかし、新婚の幸せに戦争が迫っていたのです。

 

戦争の苦難と尾上の助言、そしてすみれ

光子誕生から一年後の1943年(昭和18年)。
ついに通夫も戦地へ向かうこととなりました。ジャカルタの海軍武官府に赴任することとなったのです。

この直後には、赤紙も届いておりました。もしもこちらが先であれば戦死していたはずだ――と本人は振り返っていたそうです。

戦況は悪化し、神戸にも空襲が迫りました。

洋風の屋敷が焼け落ち、惇子は姉を頼り、岡山の勝山へ疎開。
夫・通夫の頼りを待ちながら、惇子は1945年(昭和20年)、終戦を迎えたのでした。

夫からの連絡もなく、戦後の財政混乱に苦しめられる惇子。
彼女は父・八十八を頼ります。

ここで惇子は、尾上清と出会いました。
『べっぴんさん』では高良健吾さんが演じた野上潔のモデルです。

実物の彼は、なかなかのワルでした。悪人ということではなくて、ちょっと不良ぽかったんですね。
女性との交際で学費を使い果たすような、そんな一面があった尾上は、八十八に拾われて佐々木営業部(のちのレナウン)で働いておりました。

中国天津での軍務を終え、沖縄で終戦を迎えていた尾上。
彼は惇子を「小嬢ちゃん」と呼んでおりました。

夫は戻らない、赤ん坊を抱えてどうしたらよいのか。そう嘆く惇子に、尾上はこう言います。

「小嬢ちゃん、時代はもう変わってしまいました。今までの小嬢ちゃんではあかん。自分の力で生きていかねばならん。働きなはれ。実は、とても楽しいことなんですわ」

八十八も、この会話を聞いて「その通りや」と励まします。

そんな惇子のもとに、通夫から「すみれの咲くころに戻る」という手紙が届きます。
そして昭和21年(1946年)春、引き揚げ船の「すみれ丸」で、言葉通りに戻るのでした。

『べっぴんさん』ヒロインの名前である“すみれ”とは、坂野夫妻思い出の花でもあったのです。

夫、娘と共に、惇子は神戸へ戻り、新生活を始めます。
家財道具にも事欠く生活ながら、惇子は持ち前の気質で明るく生きようとするのでした。

尾上は、恩人である八十八の佐々木営業部再興に尽くします。通夫もそこで働くよう手配されました。

夫が働くのであれば、家庭を守ってさえいればよいのか?
いいえ、惇子は違います。

尾上の「働け」という助言が脳裏にずっとあったのです。

 

ハイヒールから芽生えた可能性

惇子が自信を持って発揮できる才能。

それは裁縫でした。

始めのうちは近所の人から依頼を受けて、縫い物をします。
とはいえ、御礼は現物支給ばかり。商売とはいえないものでした。

生活が上向かない1948年(昭和23年)、惇子は戦火を免れた“とあるモノ”を売ろうとして、靴職人の元田蓮を訪れました。

6足のハイヒールです。
嫁ぐときに元田が腕によりをかけて作ったものが、下駄箱の奥に仕舞ったままになっていたものです。

『べっぴんさん』では麻田茂男という名前で、市村正親さんが演じていた元田。
惇子は、この靴を買い取ってもらおうとしましたが、彼は乗り気ではありません。当時、こうした靴を買う客といえば、米兵相手に性的な奉仕をする、いわゆる“パンパン”と呼ばれた女性たちでした。

元田に買い取りを断られた惇子は、自分の行いを恥じました。

相手がせっかく丹精を込めて作った靴を売ろうとするなんて……。謝罪しつつ、惇子は我が子の写真を差しだしました。その写真は、お手製写真ケースに入っていました。元田は、それに目を留めます。

「この素敵な写真入れを、売ったらどうでしょう?」

元田はそう申し出で、販売スペースの提供すら約束してくれたのです。
惇子の中で、働く可能性が芽吹いた瞬間でした。

 

主婦4人でスタート

惇子は、主婦仲間にこのことを相談します。

坂野惇子(ヒロイン・板東すみれのモデル)
田村光子(谷村美月さんが演じた岩佐明美のモデルの可能性あり)
田村枝津子(のちに江つ子と改名、百田夏菜子さんが演じた小澤良子のモデル)

時代はもはや戦後。
彼女の夫たちも「女も働く時代だ」と賛成します。

ただ、商売の難しさを知る八十八は、きちんと売るものを考えるべきだと厳しい態度でした。

惇子は考えます。そこで思い出したのが、外国人や娘の育児のために雇ったベビーナースから見聞きした知識です。
本当に母子のためになる、高品質なベビー用品。

それだ!と仲間も賛成します。
ここで惇子は、もう一人の仲間を引き込みます。

村井ミヨ子(土村芳さんが演じた村田君枝のモデル)です。

惇子はじめ、彼女らの強みはお嬢様であったこと。
一流の品やお稽古事に囲まれた彼女らには、見る目と技術があったのです。

さらに、商売を始めるとなればあの尾上が、進駐軍から物資を提供してくれます。
実は、スタートから恵まれていたのでした。

 

「ベビーショップ・モトヤ」開店

こうして1948年(昭和23年)、惇子たちは「ベビーショップ・モトヤ」を始めました。
元田の「モトヤ靴店」内での営業開始です。

・進駐軍の枕カバーを洗濯して、薔薇の花を刺繍したよだれかけ
・イギリス製の高級毛糸を用いた赤ちゃん用レギンス
・アップリケのついたベビー服、コート、手袋、靴下

高級感あふれる品揃えでした。
宣伝をしたわけではなく、客入りも日によってマチマチながら売上は上々。準備した品物は次第に無くなっていきました。

おっかなびっくり始めた4人は、そのうち役割分担するようになりました。
惇子は、外回り、販売と仕入れの責任者となります。

そんな惇子のアイデアがヒット商品につながります。
クリスマス装飾用の銀ベルに、キャンディを詰めて売ることにしたのです。これがなかなかのヒットとなりました。

ところが、予想外の展開が起こります。

いざ決算をしてみると、利益はほんの僅かなものだったのです。
高級志向のせいかコスト意識が低く、お嬢様だけに金勘定も疎い。

それでも彼女たちはラッキーでした。折しも世はベビーブームで経済成長期。子供服は右肩あがりで売れてゆくのです。

惇子たちのお嬢様気質も、プラス材料でした。
目先の売り上げを狙うわけではなく、美意識のある商品作りを心がけていたのです。

それが顧客のニーズに一致したのでした。

あまりに順調な商売であるため、元田はこう促します。

「独立したらどうか?」

しかし、彼女らはこのままでいいと笑顔。まるで欲がありません。

元田は、客層の変化にも気づき始めました。上品な女性客が増えたのです。

そんな彼女らのために、元田は応接室を設置。
しかし、これに喜んだのは、当のベビーショップ四人組でした。
着替えや弁当を食べるために、使ってしまうのです。お嬢様パワーですね。

以降も、何度も独立を促す元田。しかし彼女らは首を横に振るばかり。元田の隣の店舗が空くと、ようやく移転の目処が立ったのでした。

1949年(昭和24年)。
3坪の店ながら、独立を果たしたのは1年後のことでした。そして……。
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