神君伊賀越え

徳川家

神君伊賀越えのルート&全日程|本能寺後の家康は三河までどう辿り着いたのか

2025/07/23

徳川家康は生涯で三度、絶体絶命のピンチに遭ったといいます。

1つめは家臣団が真っ二つに割れ、国衆たちも反乱の様相を呈した三河一向一揆。

2つめは武田信玄に完膚なきまで叩かれた三方ヶ原の戦い。

そして3つめが今回注目する【神君伊賀越え】です。

天正十年(1582年)6月4日、わずかな手勢と共に家康が伊賀の険しい山々を逃亡し始めたのですが、理由は他でもありません。

この二日前の6月2日に本能寺の変が起き、織田信長に続いて家康の命も危機にさらされたのです。

明智光秀や在地の武士、農民などに狙われるという、神君の生涯に3度あった命の危機の1つであり、かなり見応えのある逃避行でもあります。

前後の動向も合わせて振り返ってみましょう。

イラスト・富永商太

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甲斐武田を滅ぼし 駿河で信長を接待

天正十年(1582年)3月、武田勝頼を死に追い込み、ついに武田家を滅ぼした織田信長。

それには徳川家の協力が不可欠であり、信長は大いに感謝しました。

三方ヶ原の戦いで武田信玄に殺される寸前になっても、ずっと加勢し続けたのですから、そりゃあ大切な存在ですよね。

実際、信長は、駿河国(現・静岡県)をまるごと家康に任せております。

その返礼として、家康は駿府一体に私財を投じて大工事を行い、新しく作った宿で信長をもてなしました。

長年の塩分過多な食生活で短気になっていたっぽい信長も大喜び。

もともと「互いに一度も裏切らなかった強固な同盟」の両者ですし、幼い頃から顔を見知っていた(といわれている)ので、お互い昔の不遇を思えば感激も一入だったでしょう。

織田信長(左)と徳川家康/wikipediaより引用

 


宴会には宴会で返す それができる男の流儀

この宴会がそもそも返礼ですので、ここでおしまいにしても良かったのです。

しかし、よほど嬉しかったのでしょう。

信長はさらに「(家康に)あんだけやってもらっといて、ハイ終わり、ではちょっとな。今度ウチに来いよ。ついでに京・大坂も見物してったらいいじゃん」(超訳)ということで、さらに安土城へ招いています。

この辺の気の使いようは高圧的な信長イメージからはかけ離れていますよね。まぁ、それは主にフィクションでの信長像なので、実際は常識人だった可能性も大いに考えられます。

家康としても断るのは心証を悪くしかねませんし、信長の意向を受けて安土へ。

安土城図/wikipediaより引用

家臣たちは「返礼の返礼とか怪しくね?危ないんじゃね?殿を守るぞ、うぉおおおおお」(※イメージです)ということで緊張しまくっていたようですが。

人数は少ないながら、本多忠勝や井伊直政など、徳川四天王と呼ばれる人々を含めた、いわば精鋭中の精鋭がお供をしていました。

後のことを思えばこれで正解だったのかもしれません。

 

安土城でどのような食事が振る舞われた?

安土城では、信長自ら給仕やお酌をするなど。

「ウェルカム、家康とその家臣たち!!」な大歓迎を受けました。

実際、安土城でどのような食事等が振る舞われたか?

まだ交通網も発達してなかった当時において、全国から取り寄せた高価な食材を次々に提供――。

そんな記録をもとに再現したのが名古屋「宝善亭(→link)」で出されていた『信長御膳』です。

以下に食レポがございますのでよろしければご参照ください(本記事末にもリンクございます)。

織田信長(左)と徳川家康の肖像画
信長御膳の豪華な中身|信長が安土城で家康に振る舞った究極のグルメとは?

続きを見る

食事を振る舞われた家康一行は、さらに能見物などで数日過ごした後、京都へ向かいます。

家康はあまり演劇に興味がなかったようなので「ありがた迷惑だったんじゃね?」と見る人もいますが、まぁそこはお付き合いなんでしょう。

ちなみに信長の息子・織田信忠と、豊臣秀吉は大の能ファン。

秀吉などは後年、自ら作品を作るなど意外なほどに没頭しております。

織田信忠(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用

なお、この家康滞在中の接待役が明智光秀で、途中、「腐った魚を出しやがって!」と信長にぶちキレられて接待役を外され、その恨みから本能寺の変に至ったという説もありますね。

現在では否定されておりますが、古いフィクションなどではしばしば見られたシーンですので、そう思われている方も多そうです。

少し余談が過ぎましたね。

そろそろ本題へと参りましょう。

 

堺でお買い物中に本能寺の変!

家康は予定通り京都を見物し、5月30日からは堺見物をしていました。

国主ですから、ただ単に楽しんでいただけではなく「これからウチ街をどう作っていくか?」なんてことも考えていたでしょう。

しかし、見物を終えて、いったん京都へ向かおうとしていたところ、激震が走ります。

6月2日未明に本能寺の変が起こったのです。

浮き浮き旅行気分から一転、家康はドン底気分に落とされます。

信長の討死を知らされたのは堺を出て少し北上した飯盛山辺り(現在の大阪府大東市)とされ、京都までは当時の交通事情でも一両日程度しかありません。

明智光秀が、自身と敵対しそうな連中は粛清だ!なんてことを言い出せば、真っ先にやられるのはほぼ丸裸状態の家康です。

明智光秀/wikipediaより引用

さらには農民や地侍などの、落ち武者狩りも横行するかもしれません。

八方塞がりになった家康、一時は「(京都の知恩院で)ワシも死ぬ」と大混乱に陥ったとも伝わります。

しかし「信長死す」の報を届けてきた商人・茶屋清延(茶屋四郎次郎)や本多忠勝、案内役の長谷川秀一などが説得。

「私たちもお供しますので、一刻も早く逃げましょう。金を出せば通してくれるところもあるはずです」

少人数だからこそ、かえって目立たず行動できる――と踏んだのでしょう。

そもそも長谷川秀一が織田信長の配下だったため、その前で信長に従って「追腹を切る」というポーズを取っただけ、という見方もありますが、いずれにせよ逃げなければ殺される状況です。

では家康たちは実際どんな道を通ったのか?

 


約200kmの逃避ルートはこう!

まともな道を通ったのでは「どうぞ怪しんでください」と言っているも同然です。

主要な街道は既に明智方に封鎖されているだろうと踏んで、裏道どころか獣ですら通るかどうか怪しいようなルートを選んだとされています。

決死の逃亡劇ですから、はっきりした道筋はわかっていません。

その上で『石川忠総留書』に記されていたという逃亡ルートの経路を以下にマークしてみました。

※地図参照『主従わずか数十人 苦難の伊賀越え 歴史群像(著:桐野作人)』→amazon

地図上にある赤いポイントは、西からザッと以下の地名になります。

堺(5月29日~6月2日・大阪府堺市)

平野(6月3日・大阪市平野区)

飯盛山(ここで本能寺の変を知り実際の逃亡劇が始まる)

穂谷(6月3日・大阪府枚方市)

宇治田原(6月3日・京都府宇治田原町)

信楽(6月3日・滋賀県甲賀市)

下柘植(6月4日・三重県伊賀市)

鹿伏兎城(6月4日・三重県亀山市)

白子町(6月4日・三重県鈴鹿市)

海路(6月4日)

岡崎城

この地図を拡大して見てみると、戦国当時であれば、まさに道なき道を行くといった山間ルートであり、「よく数日で踏破できたな……」と感嘆せざるを得ません。

現代ですらほとんどの場所が緑一色=山の中ですから、当時なんて想像もつかないほど。

白子町(三重県)を経て、最後は海路を利用しながら岡崎へ到着しています。

 

現在の道路で計算すると?

ちなみに現在の道路で計算してみますと、ざっとこんな感じです。

①国道25号 199km

②国道1号 227km

やはり茶屋四郎次郎の働きでスンナリ通れたのが大きいのでしょう。

実際、山賊などがいる場所があり、茶屋四郎次郎が先回りして”銀子配り(お金バラマキ)”をするなどして家康を助けました。

かくして厳しい道を無事に通過できた家康。

本能寺の変後に大移動できた二人がその後天下人になったというのも、なんだか偶然ではない気がしてきます。

このとき堺まで家康に同行していた元武田家の重臣・穴山梅雪(穴山信君)は、別ルートを通って落ち武者狩りに遭い落命しております。

穴山信君(穴山梅雪)/wikipediaより引用

運というか。

生き残る者の凄まじき本能というか。

命からがら逃げているのに、家康の強さが浮かび上がってきますね。

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【参考】
桐野作人『主従わずか数十人 苦難の伊賀越え 歴史群像』(→amazon
伊賀越え/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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