絵・小久ヒロ

明智家

明智光秀の生涯55年をスッキリ解説!なぜ織田家No.1の出世頭が本能寺へ?

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明智光秀とは、いかなる人物か?

そう問われて即答できる方は意外と少ないものです。

本能寺の変」で主君・織田信長を殺した謀反人、悪人――かつてはそのようなイメージ一辺倒で、冷静な分析が入る余地は無きに等しいものでした。

しかし、時代がくだるとともに、評価は変わっています。
謀反の一件はあまりに衝撃的なれど、光秀が織田家で果たした業績そのものまで色眼鏡で見るべきでない。

事実、大河ドラマで初の主役に躍り出たのも、評価の見直しが進んでいる証拠でもありましょう。

では、それによってどんな史実が浮かび上がっているのか?

明智光秀55年の生涯を見てみましょう。

 

明智光秀 霧の中の前半生

明智光秀の人生を大河ドラマにするとなると、とにかく難しい――。

最初から「何言ってんだ、コイツは?」と思われるかもしれませんが、もちろん理由はあります。

光秀は『真田丸』の真田幸村真田信繁)同様に、

・知名度が高い

・その割に【前半生】の事績が不明である

という二つの特徴があるのです。

ハッキリと事績が判明しているのは、後半生の十数年間のみ。

生年に至っては、

・永正13年(1516年)生まれ
・享禄元年(1528年)生まれ
・天文9年(1540年)生まれ

と主に3つの説が提唱されています。

そこから本能寺の変(1582年)時点での年齢に当てはめると

・67才
・55才
・43才

という計算になりますね。

当時の67才といえば相当な高齢ですから、ここでは便宜上、多くの辞書でも採用されている【1528年説(享年55説)】で進めましょう。

 

明智光秀、世に出る

明智光秀が霧の中から出てきて、歴史の光の中に姿を見せるのは、細川幽斎細川藤孝)との出会い以降です。

越前にいた頃、二人は出会ったとされています。

細川幽斎(細川藤孝)/wikipediaより引用

軍記物での明智光秀は、斎藤道三の側にいた(長良川の戦いで敗北した)――そんな説もありますが、確定までには至っておらず。

何らかの理由で美濃を離れたあと、越前国の朝倉義景に仕官し、十年間家臣であった――という話も実はハッキリしません!

敗者の歴史は、本当に残りにくいもので。武士としてのルーツは

清和源氏

土岐氏

明智氏

と推測され、記事末に考察を掲載しておきますので、後ほどお読みください。

ともかく、細川藤孝(幽斎)との出会いから、先へと進めましょう。

細川藤孝(幽斎)は文武芸術に通じた光秀の盟友!かと思いきや本能寺後は……

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兄・義輝を殺された義昭のもとで

明智光秀が細川幽斎と出会った頃。

後に室町幕府最後の将軍となる足利義昭は、窮地に立たされておりました。

【関連記事】足利義昭

永禄8年(1565年)。
第13代将軍・足利義輝が、三好三人衆や松永久秀らの手にかかり無念の死を遂げ、弟・義昭は、姉婿にあたる若狭国守護武田義統たけだよしずみのもとへと逃れていました。

義昭は、都を捨てたつもりはさらさらありません。
各地の武将に上洛&自らの将軍擁立を依頼し始めます。

細川藤孝が使者として派遣され、この申し出を受けたのが織田信長でした。

ところが、ここでトラブルが発生します。

永禄9年(1566年)に義昭は、織田家と斎藤家の間に和睦を結ばせていたのですが、わずか数ヶ月で信長が和睦を破り、美濃へと出兵。
家臣たちに愛想を尽かされていた斎藤龍興を稲葉山城(後に岐阜城)から追い出し、1567年8月、この地へ本拠地を移転したのです。

 

信長に助力を得て義昭の上洛&将軍就任

こうした信長の一連の動きに対し、義昭も流石にキレ、越前の朝倉義景を頼ろうとしました。
そこで光秀と接触したわけです。

しかし、肝心の義景は腰が重い。
一向に上洛の素振りも見せません。

しびれをきらしつつある義昭に対し、明智光秀は「信長こそ頼れる者なり」と話を持ちかけ、自らが使者となって発ちました。

永禄11年(1568年)。
かくして足利義昭一行が織田信長から招聘を受け、岐阜に入った時期から、光秀の動向もはっきりとしてきます。

信長と義昭の交渉を担当したのが細川藤孝であり、さらに信長と藤孝の間にいたのが、明智光秀なのです。

【義昭―藤孝・光秀―信長】

信長が美濃を攻略した永禄10年(1567年)あたりから、明智光秀は細川藤孝の家臣として、信長の周辺に姿を見せていたと思われます。

この両者は、本能寺の変にて数奇なヤリトリをすることになりますが、それは後ほど。
国を追われて十年を経て、故郷に戻った明智光秀には、どのような思いが胸に去来したのでしょうか。

永禄11年(1568年)。
ついに信長が義昭を引き連れて上洛すると、光秀と藤孝も京都に同行しました。
二人は、信長が岐阜に戻ってからも京都に留まります。

そしてその翌年の永禄12年(1569年)、事件が起きます。
足利義昭が三好三人衆らに襲撃されたのです。

堅固ではない寺での防衛戦となり、守備をするにも限界がありましたが、光秀も藤孝らとともに応戦。
ほどなくして到着した織田家の援軍により、事なきを得ます(本圀寺合戦と言う)。

信長の事績を示す『信長公記』に明智光秀が登場するのは、この戦いからです。

とはいえ、まだ際だった活躍をしたわけではありません。
このころの明智光秀の立場はなかなかややこしく、足利将軍家と織田家、両方に所属するというものでした。

光秀は、義昭にとって有能な家臣として仕えていたのです。
織田家の優秀な家臣としての道は、まだ先でした。

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義昭と信長の決裂

永禄11年(1568年)。
足利義昭は念願の15代将軍となりました。
と、同時に違和感をおぼえていました。

どうも信長に好きなように利用されているようで、「話が違うやん!」という気持ちになったのです。

信長にとって将軍はただのお飾り。上洛のため使えるだけに過ぎません。
しかし義昭は、将軍として全国の大名を支配できると思っていたわけです。

この不幸なすれ違いは、明智光秀の人生にも大きな影響を及ぼします。

永禄13年(1570年)、信長は「殿中御掟」を出して義昭の行動を制限します。

一方、義昭は、裏で朝倉義景と通じておりました。
信長は義景の行動を警戒し、朝倉家に対し、上洛するよう命じます。

と、義景はその命令を黙殺。
しびれをきらした信長は、ついに越前へと出兵するのです。

絵・富永商太

明智光秀も従軍しました。

他にも徳川家康豊臣秀吉などが参加。
織田の主力部隊に対し、朝倉が絶対的なピンチに陥った――そう思われた矢先、織田軍を待ち構えていたのは予期せぬ事態でした。

背後にいた浅井長政に裏切られたのです。

 

浅井に裏切られ金ケ崎の撤退戦

越前へ攻め込み、朝倉義景を滅ぼそうとした信長。
その直後に、義弟の浅井長政に背後を取られ、織田軍は撤退を余儀なくされます。

僅かな伴を引き連れた信長が、京都まで逃げるまでの間、敵を引きつける役を請け負ったのが明智光秀でした。

この撤退戦は、豊臣秀吉による「金ヶ崎の退き口金ヶ崎の戦い)」として有名ですが、光秀も殿しんがり軍に加わっていました。

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義昭と通じていた朝倉。
そこへ攻め込むという戦に従軍したことにより、光秀の所属も、両属から織田家臣へと切り替わっていったといえましょう。

ただし、元亀3年(1571年)の時点で、まだ義昭家臣とする記録もあるため、このあたりの切り替えタイミングも難しいようです。
ドラマとしては心理描写にやりがいがありそうですね。

元亀2年(1571年)には「比叡山焼き討ち」に参加。

信長にとっては目の上のたんこぶを取り除いたようなものでして、よほど嬉しかったのか、このときの光秀の戦いぶりを絶賛しています。

比叡山延暦寺焼き討ちを描いた絵/wikipediaより引用

実際、抜群の活躍であったのでしょう。

明智光秀は、この功績によって近江志賀郡を与えられ、坂本城の築城を開始。

坂本城址の石垣

それまでの居城だった宇佐山城よりも、志賀郡の行政統治に適した城でした。

なにより琵琶湖の水上交通も利用したネットワークは、岐阜城(美濃)と京都をつなぐのに超重要な拠点となりますので、ここは地図でも確認しておきましょう。

◆美濃~京都ルートを支える重要拠点

・赤色(右)→岐阜城

・紫色(中央)→安土城 ※1579年に完成

・黄色(左)→坂本城 ※1571年頃に完成

いかがでしょう?

織田家本拠地・岐阜城だけでなく、後の安土城を考慮しても、明智光秀の坂本城がどれだけ重要だったか、現代の我々にとっても明白ではありませんか。

信長から並々ならぬ信頼を得て、足下を固めていった様子がうかがえます。

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さらば将軍義昭

さて、光秀が義昭ときっぱりと手を切ったのはいつごろでしょうか。

元亀3年(1571年)の時点では、一応「義昭家臣」という表記が残っています。
ただし、元亀4年(1573年)2月に義昭が信長に対して挙兵すると、明智光秀は織田家臣として敵対する側に回っています。

信長は自分を評価するのに、義昭はそうではない――。そういう状況に嫌気が差したようです。

同じく義昭の家臣である細川藤孝も、元亀4年(1573年)にはこの将軍を見限っておりました。

そして元亀4年(1573年)2月、ついに義昭が織田家に対して挙兵します。

この戦いで明智光秀は、完全に義昭と決別し、織田家臣として参陣。

昔のよしみなのか。
義昭を救うため信長と和睦を結ばせようとも努力した形跡もあるのですが……松永久秀・三好義継の謀叛により工作は破綻しました。

そして同年、義昭はまたしても挙兵。

今度はさすがに信長も甘い顔をせず、きっちりと城を囲むと、最後は衆寡敵せずで義昭はあっさり降伏しました。

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義昭は京都から追放されて毛利を頼り、結果的に室町幕府は滅亡――。

このあと信長は朝倉・浅井両氏を打倒すると、それまでに囲まれていた信長包囲網は脆くも崩れ去りました。

ただしこれは、織田家最大の強敵・武田信玄が病死していた影響が殊のほか大きかったことも忘れてはならないでしょう。

 

天下人の家臣として

織田信長が天下人へと駆け上がる中、明智光秀はその家臣として重要な役割を果たします。

義昭追放後、準備期間を経て、信長が本気で「天下布武」に乗り出すターニングポイントは、天正3年(1575年)のこと。この年、明智光秀は惟任これとうの姓を賜り、従五位下日向守に任官されました。

かくして彼は、惟任日向守となったのです。

惟任だけでなく、同年に信長が家臣のため賜った姓は、九州名族のものでした。

弱りつつあるとはいえ、東の強敵である上杉家と武田家は健在。
信長は彼らと対峙する前に、西へと目を向けたのです。
そして……。
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