歴史的なできごとを見ていると「さすがに、それは酷すぎないか……」と思うことは多々あります。
その最たる一つが
◆浅井長政の頭蓋骨に金箔を貼った
という織田信長の話ではないでしょうか。
『信長公記』に記され、詳細は以下の記事にまとまっておりますが、
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正月の酒宴「浅井と朝倉の首」を肴に酒を飲む|信長公記104話
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今回注目したいのは、長政当人ではなくその息子。
天正元年(1573年)10月17日、浅井長政の長男・浅井万福丸が処刑されました。

日程については諸説ありますが、いずれにせよ父である長政の死から程なくして殺されているのは確実そうなので、このまま進めてまいりましょう。
わずか10歳の子供が関ヶ原で磔って
浅井長政というと、その妻・お市の方と浅井三姉妹(茶々・初・江)がクローズアップされがちです。
彼女たちとは別に嫡男もいたんですね。
ただし、その生母が不明でして、お市の方が嫁ぐ前に生まれたとか、お市が母親だとか、色々な憶測があります。

お市の方/wikimedia commons
そんな調子ですから万福丸の生年も不明なのですが、『信長公記』によると天正元年(1573年)で10歳になると記されているので、永禄7年(1564年)生まれが有力候補の一つ。
本拠地・小谷城が落とされて浅井家が滅亡したあと、余呉湖畔(滋賀県長浜市)の隠れ家へ落ち延びていたところを豊臣秀吉の捜索隊に捕まったとされています。
小谷城の戦いについては以下の記事に詳細を譲るとしまして、
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小谷城の戦い(信長vs長政)で浅井滅亡|難攻不落の山城がなぜ陥落したか
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問題はその後。
関ヶ原で磔(はりつけ)&串刺しの刑にされるのです。
物心ついたばかりで、あまりにも非情な運命ですよね。
「そんな小さい子を殺すなんて、やっぱり信長はひどい!!」
そう思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、実は大して珍しい話ではありません。
武家においては「敵の子供を殺す」のは当たり前であり、常識的な行為でした。
「源氏の御曹司を助命した結果」どうなったよ?
日本史でわかりやすい“例外”が源頼朝でしょう。
父・源義朝が平清盛に敗れて処刑された後、幼い頼朝は平家の追手に一度捕まりました。
そして処刑されそうになったところを、清盛の義母や皇居の女性達の嘆願により命だけは救われ、伊豆への流刑になるのです。
当時、死刑の次に重いのは流刑だったからです。
「敵に命を助けられた」ことになるわけですが、頼朝はそれを恩に感じて大人しく……なんてしてくれません。
後に平家打倒の兵を挙げるのは皆さんご存知の通り。
ドラマや小説では「あの恩知らずが!」なんてシーンが入っていることもありますね。まさに勝てば官軍。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikimedia commons
つまり「幼いからといって敵の子供を生かしておくと、いずれ自分の子孫が滅ぼされる」可能性があるわけです。
まぁ、そりゃそうですよね。
敵が自分と同世代であれば、子供同士も同じくらいの歳になるわけですから、いずれぶつかるのは必至。
ならば先に災いの芽は摘んでおこうというわけです。
世界史も皆殺しがデフォだった
世界史でも「かつて王様になった人間は自分の親兄弟を含めた血縁者を皆殺しにするのが当たり前だった」なんて時代もあります。
だいたい中世くらいの話です。
ヨーロッパでの記録が多いですが、オスマン帝国でもだいたい同じようなことをやってましたので、一時期においては”世界の常識”レベルの話でした。
こういうことを知ると、現代の庶民に生まれて良かったですね。
織田信長は自分が織田家を継いだ後も尾張の統一にさんざん苦労していますので、この手の”戦後処理”は徹底しています。

織田信長/wikipediaより引用
それでも、血縁者やお気に入りには相当甘いんですけどね。
例えば、松永久秀とか。
久秀は政治・外交力があるだけでなく、文化面でも長けていたから重宝されたのでしょう。
最近の研究で、久秀の人物像はかなり変わってきており、武人としても文化人としても相当デキるタイプだったと目されております。
だから信長は、二度目の裏切り後も許そうとしたぐらいです。
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なぜ松永久秀は二度も織田信長を裏切ったのか?大和を巡る執念と決断
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岐阜を追い出された龍興は何度かの激突の末に……
面白いところでは斎藤龍興でしょうか。
岐阜を追い出された後、何度も信長へ仕掛けて、そして尽く跳ね返されています。
結局、朝倉義景を頼り、同家が滅亡するタイミングの【刀根坂の戦い】で討ち死にしました。
漫画『センゴク』でも非常に面白く描かれておりましたね。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用
浅井家については、三姉妹を助けて血筋だけでも残したあたりが粋な計らいとも取れます。
代々武士の家に生まれたからこそ、血が続くだけでも充分な栄誉であることがわかっていたのでしょう。
実は、浅井長政には、万福丸の他にもう一人の男児・万菊丸がいて、逃げ延びたという話もあります。
坂田郡長沢の福田寺に匿われ、そのまま同寺の住職(12世・正芸)になったという話です。
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【参考】
国史大辞典
畑裕子『浅井三姉妹と三人の天下人』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
山本大/小和田哲男『戦国大名系譜人名事典 西国編(新人物往来社)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
浅井万福丸/wikipedia






