天正12年(1584年)に始まった【小牧・長久手の戦い】。
徳川家康の背後を衝くため、三河を攻めようとした羽柴軍に対し、奇襲を察知した徳川方。
逆に徳川に奇襲を仕掛けられると総大将の羽柴秀次(豊臣秀次)軍は程なくして壊滅、森長可と池田恒興という古参の名将たちが命を落とした。
そして膠着状態へ。
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家康は四国の長宗我部元親や紀伊勢に呼びかけ、豊臣秀吉包囲網を敷こうと画策する。
一方で、羽柴軍も、ジリジリと動きのない徳川軍をおびき出すべく、次の手を打とうとしていた――。
作戦会議
◆足利将軍家に仕え、信長を通じて秀吉、家康とも縁を持ち、現代まで血をつないでいる大名・細川家。
とりわけ細川藤孝は有能な大名として知られる一方、息子の細川忠興さんは何かとお騒がせな「ブチ切れ大名」として有名でした。
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降伏した敵を容赦なく斬り殺して明智光秀にたしなめられ、普段から家臣をたたっ斬るなど……。武勇伝とは全然関係のないお茶の本に「天下一気の短い人物」と記されるなど、とにかく逸話に事欠かない御方です。
第二世代ってのは、つまり細川藤孝さんなど信長家臣団の息子世代って意味ですね。おそろしや。
加賀野井城の戦い
◆小牧・長久手の戦いもかなり進んできますと、そもそも誰と誰が戦っていたか忘れがちになりますが、秀吉さんのお相手は徳川家康だけでなく織田信長の次男・織田信雄さんもおりました。
その信雄の部下にして加賀野井城の城主だったのが加賀野井重望。
果たしてここまで奮戦できたのか、マンガ表現ということで……。
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