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伊賀と甲賀の忍者はいかにして誕生し、そして消えていったのか

【編集部より】
本稿は、書籍『日本史の真相に迫る 「謎の一族」の正体 (青春文庫)』(→amazon)に掲載の記事を弊サイトにご寄稿いただいたものです。

 

山ひとつ挟んで隣接する伊賀と甲賀

その昔、日本各地には、諜報活動に必要とされる特殊な能力を身につけ、権力者の耳目となって活躍した闇の一族がいた。

東北地方で早道之者はやみちのもの、間盗役、黒脛巾組くろはばきぐみ、関東で草、物見、乱破、北陸・中部で軒猿、間士、聞者役、透破、透波、三ツの者、畿内で水破、透波、伺見、奪口……などと呼ばれた、そう、忍者である。

忍者の役割とは、言うまでもなく敵地に深く潜入し、味方にとって有益な情報を盗み取ってくることにある。

したがって忍者は、体術や剣術は言うに及ばず、様々な知識(土地土地の方言や変装術、薬学、天文学、心理学などなど)に通じていなければならなかった。

忍者が特に活躍したのは、やはり群雄が割拠した戦国時代である。戦国の三英傑(織田信長豊臣秀吉徳川家康)に代表される多くの権力者たちは例外なく忍者を使いこなしていた。

そうした忍者集団のなかで特に有名なのが、ご存じ、伊賀忍者と甲賀忍者である。

現在の三重県北部の伊賀国を拠点としたのが伊賀忍者で、滋賀県南部の近江国甲賀郡を発祥とするのが甲賀忍者である。両地は三重県と滋賀県の県境にあり、高旗山(標高七百十メートル余)という名の山ひとつ挟んで隣接しているところが興味深い。

一体、この二つの忍者集団はいかにして誕生し、日本の歴史にどのような足跡をしるしてきたのであろうか。

 

傭兵として周辺の大名に従軍

忍者の起源だが、一説には聖徳太子に仕つかえた志能便しのびまたは志能備と呼ばれた大伴細人おおとものさびとにまで遡さかのぼるという。

この志能便という言葉については、忍術研究家の奥平兵七郎氏は「主人によき便り、諜報をもたらすべく志す者」と解釈し、のちの忍びの者、忍者の語源になったと述べている。

しかし、この大伴細人なる人物が公式記録に登場することはなく、あくまで伝承にすぎない。

伊賀や甲賀の忍者が表立って活躍するようになったのは、鎌倉時代から室町時代にかけてであった。

政治の中心である京都に近く、山間地でもあった両地域には古来、小豪族がひしめいており、小競り合いが絶えなかった。そうした環境から自然、諜報活動や工作活動、奇襲戦などのわざが代々受け継がれ、磨かれていった。

戦国時代に入ると、そうした伊賀や甲賀の人々が持つ特殊能力は周辺諸国の大名の目にとまり、傭兵という形で従軍を要請されるようになった。

しかし、伊賀と甲賀、どちらも金で雇われて従軍したことは確かだが、依頼主との付き合い方に大きな差があった。

甲賀の場合、特定の大名に絞って加担したという。これは、もともと甲賀の人々は近江国の佐々木六角氏傘下の地侍だったことと無縁ではない。

一方、伊賀の場合、そのへんはドライなもので、たとえ敵対関係にある両者から同時に依頼が入ったとしても双方に配下の者を派遣したという。

 

信長の次男が伊賀に侵攻する

戦国時代、伊賀と甲賀のどちらにも存亡をかけた合戦があったことをご存じだろうか。

その合戦を乗り越えたからこそ、伊賀および甲賀の歴史は後世に伝わったのである。

それはどんな合戦だったのか。ここでは伊賀忍者が皆殺しにされかけた「天正伊賀の乱」をみていくことにしよう。

天正伊賀の乱は、伊賀国の領国化をもくろんだ織田信長と伊賀衆の戦いである。合戦は天正七年(一五七九年)九月の第一次と同九年九月の第二次の二度に及んだ。

第一次では、信長の次男信雄が、父に相談もせず独断で領国の伊勢から八千の軍勢を率いて伊賀国に三方から侵攻した。信雄は戦前、相手を甘く見ていたのだが、いざ蓋を開けてみれば織田軍の惨敗だった。

織田信雄/wikipediaより引用

百地丹波が率いる伊賀の地侍たちは、織田軍を山中に釘づけにし、軍勢を展開できないよう仕向けたのである。

そうなると織田軍にとって大軍であったことがかえって災いした。身動きがとれなくなったところを、伊賀衆から火器を駆使した奇襲攻撃を仕掛けられ、織田の将兵は尻に帆をかけ伊勢へと敗走したのだった。

それから二年がたち、石山本願寺との抗争に決着をつけた信長は、満を持して伊賀に再侵攻した。このとき信長は信雄に対し今度こそはと汚名返上を厳命して五万もの大軍と歴戦の重臣をつけて送り出している。

 

伊賀越えで家康の道案内を

この第二次伊賀侵攻では、兵の数では圧倒的に劣るものの、伊賀衆は今度も地の利を生かして果敢に奇襲戦で挑んだという。

ところが衆寡しゅうか敵せず、八日間で伊賀はすっかり焦土化し、非戦闘員を含む三万人もの伊賀衆が虐殺された。これは伊賀全体の人口九万人のうち三分の一に当たる人数だった。

こうして一時は存続が危ぶまれた伊賀衆であったが、本能寺の変の直後、運命が好転する。
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