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上杉家vs最上家に伊達家も参戦で激アツ! 慶長出羽合戦とは【入門編】

慶長五年(1600年)9月8日は「東北の関ヶ原」と呼ぶにふさわしい【慶長出羽合戦】という戦が始まった日です。

この戦いは、関ヶ原の戦い本戦に負けず劣らずドラマチックな展開ですので、ごたくは述べずさっそく本題に入りましょう。

 

上杉征伐を準備していた勢力がどうなったのか?

この戦は【小山評定】の後に起きました。

徳川家康と他大多数の大名が西上(三成との対決)を決めた直後のことですね。

もともとは上杉景勝&直江兼続らを倒すため【上杉征伐】を進め、家康は諸将を集めていましたが、家康自身が西へ向かったことにより「ハイ解散」状態になってしまいました。

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その後どうなったか?

特に状況がシリアスだったのが上杉家(福島県会津地方・山形県庄内地方)と領地を接している最上家(山形県山形市)です。

上杉家にとっては最上を攻略すれば後顧の憂いがなくなるため、この二つの家にとってはむしろ「ここからが本番」という感じだったのです。

一時は戦闘を回避する試みもされましたが、決裂して結局戦になりました。

 

各地で最上軍が奮闘を重ね

上杉軍は米沢・庄内から最上の本拠地・山形城を攻めるべく、直江兼続を大将として侵攻を始めます。

徳川家康に【直江状】を送り、今回の戦を演出した人です。

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当初、最上側はあちこちの城に戦力を分散していたため、不利なことを誰もがわかっていて、討ち死に覚悟で戦に臨んだ家臣もたくさんいました。

いきなり緊張感ピリピリな展開。

例えば、畑谷城(現・山形県東村山郡)という城では、最上義光が撤退命令を出していたにもかかわらず、500人程度の兵で抵抗を続けて最後には自害した武将がいました。

慶長出羽合戦については双方の兵数がはっきりしていないのですけれども、城方の倍近い上杉兵を道連れにしたとか。

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一方、上山城というところでは、城外の軍とうまく連携して上杉軍を打ち破った最上家家臣もいました。

これは結果的に、慶長出羽合戦のハイライトである「長谷堂城の戦い」において、上杉軍の戦力低下の役割を果たすことになります。

真田昌幸が上田城で徳川秀忠を足止めしたように、ここでは最上軍が上杉軍の一部を押しとどめたということですね。

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他にも、一揆を利用して上杉軍に抵抗した将もいます。

これはさすがにうまく行きませんでしたが、いずれにせよ、日頃の人望や忠誠心が伺える話ですね。

一揆勢を踏み潰した上杉軍は、士気を大いに上げながら山形城の手前にある長谷堂城の攻略を始めました。

ハラハラしてきましたね。
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