佐々成政

佐々成政と馬印/wikipediaより引用

織田家

信長の側近から戦国大名になった佐々成政~秀吉に潰された生涯53年

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佐々成政
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佐々成政も本能寺によって運命が激変させられる

天正八年(1580年)から佐々成政は、越前ではなく越中で一向一揆や上杉家を相手に戦いました。

ざっと地図で見ると日本海側で越後に接する位置ですね。

これらの戦功によって越中半国を与えられ、富山城を居城とし、大規模な改修を行っています。

上杉家対策と上方での用事をこなしながら、緊急時には兵を動かすという忙しい状態でしたが、なんとかうまくやっていたようです。

なお、このころの上杉家は、御館の乱を制した上杉景勝直江兼続のコンビが中心となって国を動かしております。

謙信に比べたら、格段にラクな相手だったことでしょう。

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こうしてほぼ順調に出世してきた成政。

その生涯は、突如の出来事により急変します。

天正十年(1582年)6月2日、【本能寺の変】が勃発するのです。

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変が起きたとき、佐々成政は他の北陸担当諸将とともに魚津城(魚津市)を攻略しておりました。

城が落ちたのは6月3日。

おそらく、変のことが彼らに知らされたのも、この日以降のことでしょう(4日〜6日という説があります)。

戦には勝ったものの、当然のことながら北陸諸将は動揺しまくりで、なかなか方針が定まりませんでした。成政も何人かの武将と口論になったようです。

結局、一度は上杉家への攻勢を中止し、それぞれの領地へ戻ることになります。

明智光秀は近江のどこかに駐屯しているだろう。ならば大坂にいるはずの丹羽長秀たちと連携して、挟撃するのがいい』

柴田勝家がこのように考えていたようなので、佐々成政や他の北陸諸将の中でも、この計画に参加予定の者もいたかもしれません。

実際には中国大返しを成功させた豊臣秀吉が、6月13日の山崎の戦いで明智軍に勝ち、光秀も落ち武者狩りに遭って自害しておりました。

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なんだかムカつく利家の能登へ攻め込んで

”主君の仇討ち”という最大の発言力を手に入れた豊臣秀吉。

他の織田諸将は、徐々に抵抗する術を失っていきます。

佐々成政は中央での政治的争いにはあまり首を突っ込まず、越中一国を平定するために動いていたので、権力欲はあまりなかったのでしょうか。

かといって、そう簡単には秀吉傘下に降るものでもありません。

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まず、信長の次男・織田信雄徳川家康小牧・長久手の戦いで秀吉と軍事衝突したとき、佐々成政は呼応して兵を挙げました。

秀吉方となった前田利家の管轄する、加賀・能登のいくつかの城を攻めています。

実は以前から、成政と利家には少なからず因縁がありました。

一つは「こうがい斬り」と呼ばれる事件です。

利家が若かりし頃、信長の茶坊主・拾阿弥に刀の笄(髪型を整えるための道具)を盗まれたことがあります。

しかもこれは、利家の正室・まつの父の形見という大切なもの。当然、利家は烈火のごとく怒りました。

どうみても被害者は利家ですが、なぜか信長は拾阿弥の肩を持ち、利家の訴えを聞いてくれません。このとき佐々成政も、拾阿弥の味方をしたといわれています。

さらに、本能寺の変後の対応について北陸担当の諸将が口論になったとき、仲裁に入ったのが利家でした。

一つ一つは小さな事かもしれませんが、積み重なれば印象は強まるもの。

おそらくお互いに「こいつ、いつも俺の邪魔をしやがって」というような印象は抱いていたことでしょう。

少々余談ですが、前述【長篠の戦い】の際、佐々成政と利家は同じ鉄砲奉行に任じられていました。

大きなトラブルがあったという話は伝わっていませんが、もしかすると、ここでも多少の口論や衝突があったかもしれませんね。

立場的にも、心情的にも。佐々成政としてはぜひとも利家の城を落とし、発言力を強めたかったと思われます。

加賀にいた利家と能登の城を分断するため、1万5000という大軍で末森城(羽咋郡)を攻めました(末森城の戦い)。

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しかし、金沢城でこの知らせを聞いた利家は、即座に出陣。

佐々軍の背後に回り込んで攻撃し、見事に追い返しています。

 

埋蔵金伝説も! さらさら越えの真実は?

成政は体制を立て直すべく、空いていた鳥越城(河北郡)に入って守りの体制に入りました。

しかし、彼が再び攻勢に出る前、信雄が秀吉と和睦を結んでしまったことで、またもや状況が急変します。

この戦い、家康にとっては「信長の息子である信雄を支える」という大義名分で成り立っていました。

よりにもよって信雄が秀吉と和睦してしまっては、戦の前提がなくなってしまいます。

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信雄に協力する形で参戦していた家康も引かざるを得なくなりましたし、成政を始めとした他の武将たちも同様です。

佐々成政は抗戦を続けるべく、真冬の飛騨山脈などを越え、浜松まで自ら出向いて家康に協力を訴えました。

しかし、にべなく断られてしまいます。

さらさら越え】と呼ばれる有名なエピソードですので、ご存知の方も多いでしょうか。

新暦でいうところの1月下旬、寒さと雪の厳しさが最もキツいときに、標高2,000〜3,000mの北アルプスを越えてまで家康に会いに行った――という、にわかには信じがたい話です。

※黄色の地点から出発→紫色の2箇所を通過して、赤色の浜松城へ着き、家康に直訴

近年では、

「当時50歳前後だったはずの佐々が、現代の装備でも厳しいこのルートを、厳冬期に超えられたとは考えにくい」

などの理由で、別ルートを通った説も出てきていますね。

例えば、

「佐々成政らが通ったのは標高2342mのザラ峠ではなく、もう少し南で標高も低い安房峠あぼうとうげ(1790m)ではないか?」

というものです。

行きと帰りで別のルートを使ったのでは? という意見もあるようです。

まぁ、それでも十分に半端ない根性だとは思いますが。

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また「佐々成政は家康の説得がうまく行ったときのために、途中で軍資金を隠していた」という【埋蔵金伝説】もあります。

これは同じく北アルプスの鍬崎山くわさきやま(2089m)付近の集落に、「佐々成政が隠した埋蔵金のありかを示している」とされる里歌が伝わっているからです。

朝日さす 夕日輝く鍬崎に 七つむすび 七つむすび 黄金いっぱい光り輝く

というものだそうですが……。

【七つむすび 七つむすび】の部分以外はただの風景描写とも取れますし、朝日と夕日が一緒に出てくるあたりに違和感といいますか、暗号めいたものを感じることもできますね。

軍資金という大切なもののヒントを、部下でも家族でもなくただの村人に託した――ってのは少々現実味が薄れるような気がします。

埋蔵金についてはさておき【佐々成政が自ら家康に会いに行って説得しようとし、失敗したこと】は事実かと思われます。

成政はこの後も諦めず、しばらくの間は秀吉に反抗的な態度を取り続けていました。すると……。

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