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【吉岡妙林尼】
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和気あいあいとした飲み会で島津は(・∀・)ニヤニヤ
一方、妙林尼以下の鶴崎城内でも、そろそろ食料が尽きそうでした。
和睦を申し出たほうがいいのでは……と考え始めた頃です。
そこに攻めてきた島津のほうから「和睦してください」という連絡が来たので、願ったり叶ったりというタイミング。
内容は「城を渡す代わりに全員の命を助ける」というもので、まぁよくあるものです。一番公平ともいえますね。
さらに妙林尼たちは島津軍を手厚く酒食でもてなし、両軍わきあいあいとした宴になったとか。
陣羽織を着て長刀をぶん回していた女丈夫の妙林尼が一転、美しく着飾っていたため、薩摩の将たちも完全に気を許すようになります。

絵・小久ヒロ
現代人の感覚からすると違和感ありそうですが、当時、特に島津家には「戦の間は敵だが、それ以外は別」といった風土があったようで。
前述の戸次川の戦いでも、”長宗我部信親(豊臣方)の戦死を聞いて島津のお偉いさんが涙した”という話があります。
こういうのはまさに戦国の気風であり、薩摩隼人ですね。
しかしクライマックスはここからです。
それは天正15年(1587年)3月のことでした。
豊臣秀吉が九州征伐に立ち上がり、軍を興すという一報が届けられます。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
ここで妙林尼はもう一度、島津の将相手に宴を開き「私はもう島津の人間です。大友には帰れません。皆と一緒に薩摩へ連れて行ってもらえませんか」と言い出しました。
いろいろフラグの予感がしますよね……。
しかし島津軍では都合のいいようしか感じ取れなかったようで、申し出をあっさり受けてしまうのです。
やっぱり女性だと思ってナメていたのでしょう。
そしてしこたま酒を飲んだ島津軍は、翌日二日酔いを残したまま出立しました。
罠とも知らず……。
二日酔いの島津軍に奇襲を仕掛け多くの首を討ち取る!
妙林尼は「支度がありますので、後ほど合流します」ということで、後から城を出る予定になっていたそうです。
「女の身支度は大変だし、年寄りも子供もいるから仕方ないな」くらいに思われてたんですかね。いや、さすがにそこまでお人よしでもないかな。
はい、これは妙林尼の計略でした。
いつもより遅く進軍していく島津軍に追いついたが早いか、乙津川(現・大分県大分市)の手前でさんざんに奇襲を仕掛けたのです!
結果、挙げた首の数は63。
この隊を率いていた島津のお偉いさんも胸に矢を受け、それが元で後日亡くなったとか。
グロい話ですけど、老人女子供ばかりで物理的によく首を掻き切れたものですね。そういうコツがあるんでしょうか。
その後、首は宗麟の下に届けられ、秀吉の耳にもこの武勇は伝わりました。
女好きかつ英雄好きの秀吉ですから、その両方を兼ね備えた人物となれば当然会いたがります。
秀吉の好きになんかさせませんことよ
妙林尼は秀吉からの申し出を断り、再び一介の未亡人に戻りました。
既に秀吉の女好きは全国に知れ渡っていたので、妙林尼も警戒したのでしょう。
これについては他の武将の妻のエピソードも多々あります。
たとえば関が原の直前に自害する細川ガラシャは、秀吉と会うときに短刀を忍ばせていって、わざと秀吉の目の前で落としたなんて話もあります。
口では「失礼しました」なんて言いながら、「私に触れたらどうなるかわかってますよね^^」と脅したわけですね。「コロしてやる」とも「自害してやる」とも取れますが、どっちにしろこええ。
また、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)が京都で人質になってから書いた手紙に「私のことはお気になさらないでください。常に懐刀を携えております」という文章もあります。

愛姫(陽徳院)/wikipediaより引用
ガラシャと愛姫に付き合いがあったかどうかはわかりません。
が、当時武家の女性達の間では「秀吉に会ったら何をされるかわからないから、最悪の事態を考えておく」というのは常識になっていたのでしょうね。
しかも、これが濡れ衣でもなんでもないのが……。
その後、妙林尼の足跡については伝わっていません。おそらく穏やかに暮らすことができたのでしょう。
何はともあれ、女性も覚悟を決めておかないと生き残れないのが戦国時代だったということですね。
現代もそうだろって? うーん、難しいですねぇ。
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大分市鶴崎ではゆるキャラ「妙林ちゃん」が作られるほどの人気。大和ハウス工業のブログ(→link)等で紹介されております
長月 七紀・記
【参考】
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち (知恵の森文庫)』(→amazon)
国史大辞典
妙林尼/wikipedia