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【佐竹義宣】
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秋田へ減封
こうして慶長七年(1602年)7月、佐竹義宣と家臣たちは秋田へ移転します。
このときの有名な俗説がコレですね。
「佐竹氏が美人を残らず秋田へ連れて行ってしまったので、常陸には美人がいなくなってしまった」
そんなわけねーだろ!とツッコミたくなるような、確証のある話ではなく、あくまで噂話が大きくなったものでしょう。
あるいは北国=雪が多い=日照時間が少ない=日に焼けにくい=「色の白いは七難隠す」という日本古来の価値観から、結果的に
「常陸より秋田のほうが色白な人が多いじゃないか!」
といった流れになったのかもしれません。
義宣たちはこの年の秋、以前の領主だった秋田氏の湊城(土崎)に入りました。
しかしここでは不便であると感じ、久保田の地に新たな城を築城。

久保田城「御隅櫓」とツツジ
町の整備にもとりかかり、秋田藩の土壌作りに専念。
しかし義宣の苦難は、減封だけにとどまりませんでした。
嫡子騒動
慶長十七年(1612年)4月19日、佐竹義宣の父である佐竹義重が亡くなりました。
狩りの最中に落馬したのがキッカケ。
死因については特に暗殺などを疑うようなものではなく、問題は父の死から約半年後にやってきます。享年66の父に、新たな子どもが生まれたのです。
義宣にとっては異母弟である赤ん坊(佐竹義直)。
亡くなった佐竹義重は、生前、近しい家臣にこんな命令を出していました。
「赤子が生まれるまでわしはもたない。後々の禍根を断つためにも殺せ」
ならばなぜ、子供なんか作ったんだ!とツッコミたい場面ですが、義宣に男子がいなかったからなんですかね。
その命令を受けた人が義宣にお伺いを立てたところ、殺さず育てるよう命じたといいます。
片倉景綱・景長父子と伊達政宗にも似たような話がありますが、住環境の厳しい北国では、そういう思考になりやすいのでしょうか。

伊達政宗/wikipediaより引用
前述の通り義宣には男子がいなかったため、この義直が一時的に養子&跡継ぎになりました。
しかし義直があまりにも領主としての資質に欠けており、教育ではどうにもならないと判断されて廃嫡。
当時の記録が乏しいので、この件についても詳細は不明ながら、享保年間に編纂された『佐竹家譜』ではこんな話しになっています。
義直が猿楽の見物中に居眠りし、隣にいた伊達政宗がそれに気付いて義宣の膝を押して知らせたため、義宣が恥じて廃嫡を決めた――。
現代人からすると「その程度で?」と思ってしまいますが、かつての宿敵に「嫡子の失態を見られた&先に気付かれた」というのは、当時の武士の価値観からして相当の恥辱だったのでしょう。
さすがにこの件だけが理由ではなく、それ以前から色々と思うところはあったようで。それでも、この件が決め手になったと考えられています。
結果、佐竹義直は廃嫡され、高野山で出家するよう命じられました。
本人も静かに従っているので、もともと「大名などごめんだ」と思っていたのかもしれません。
そして義宣は改めて甥の岩城吉隆を嫡子とし、佐竹姓に戻して跡を継がせたので、一応、丸く収まって家を引き継がせています。
家の立て直し
時系列が少々前後しますが、大坂の陣における佐竹軍は、徳川方として参戦。
特に冬の陣では、黒田家を出奔したことでも知られる後藤基次(又兵衛)と激戦を繰り広げたことで知られ、佐竹家中の五人が幕府から感状を受けたものでした。

後藤又兵衛/Wikipediaより引用
寛永三年(1626年)になると、後水尾天皇が二条城に行幸することになり、徳川家光と徳川秀忠が上洛した際に佐竹義宣も上洛。
その際、二条城の給仕をしていた真田信繁の娘・お田(直とも)を見初め、実弟・多賀谷宣家の側室にさせました。
後に彼女は宣家の正室となり、良妻賢母として知られたそうです。
こうして大移転と跡継ぎという難題を片付けた義宣は、寛永十年(1633年)10月江戸で発病し、同月25日に亡くなりました。
享年64。
何かと気苦労の多い時代の人ですので、最後の最後に長く苦しまなかったのは不幸中の幸いだったかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
佐々木倫朗/千葉篤志『戦国佐竹氏研究の最前線』(→amazon)
冨山章一『奥七郡から出発 茨城・常陸佐竹氏の軌跡 (ニューズブック)』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
日本人名大辞典