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【佐竹義宣】
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秀吉の力を利用し、常陸を統一
豊臣政権に認められた佐竹義宣は、すかさず常陸の西方にいた諸勢力の攻略に動きます。
・結城氏
・小田氏
・大掾氏
・江戸氏
随分と色んな勢力がいるなぁ……と思われるかもしれません。
というのも室町時代の前半から、関東公方(室町幕府が関東に置いた役所)があまり機能しておらず、特に北関東では群雄割拠の状態が続いていたのです。
これは私見ですが、関東平野は広大であると同時に河川であっちこっちと分断されていたので、大勢力より小さな家が乱立しやすかったのではないでしょうか。
戦国時代当時の地図を見ると、川や湖沼などで細切れ状態になっている地域がかなり多いのです。
それと戦国時代のド真ん中といえる頃、上杉謙信と北条氏康、武田信玄たちが何度もバチバチやりあった影響もあったのでしょう。

左から上杉謙信・北条氏康・武田信玄/wikipediaより引用
関東の戦乱事情について詳細が気になる方は【永享の乱】と【享徳の乱】の記事も併せてご覧いただくとして、話を義宣と安土桃山時代に戻しましょう。
義宣はまず水戸城の江戸重通(えど しげみち)を破ると、府中城の大掾清幹(だいじょう きよもと)、さらに太田城で鹿島・行方両郡の諸将を招いて騙し討ち……という見事な手際で常陸を統一。
天正十九年(1591年)3月に水戸城へ入り、以降、本拠としていきます。
秀吉の安堵を受けてから1年半ほどのことです。
父は「鬼義重」と呼ばれるほどの豪傑でしたが、息子の義宣はどちらかというと謀将タイプかもしれませんね。
文禄の役では、出兵を命じられて名護屋城まで行き、一時は渡海を命じられながら、途中で「やっぱり行かなくていい」と言われて出陣せずに済んでいます。
もともと佐竹氏は、以下の系図のように、武田信玄の甲斐源氏と祖を同じくする源義光からの名門だけに、秀吉に気に入られたのか。
文禄三年(1594年)に常陸で太閤検地が実施されると、義宣は約50万6000石の知行を秀吉に安堵されました。
立派な大大名です。
しかし、その栄華は長くは続きませんでした。
慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉が亡くなり、途端に豊臣政権が揺らぎ始めたのです。
関ヶ原の戦い
秀吉の存命中から密に連絡を取っていたことから、佐竹義宣は石田三成と親しかったとされます。
かの三成襲撃事件の際は「義宣が救助した」という説もあるほどですが、そのことを明確に示す史料は見つかっていません。
彼の性格の律義さを考えると頭から否定はできない話ですね。

石田三成/wikipediaより引用
では関ヶ原の戦いでは、東軍、西軍のどちらに布陣したのか?
というと、義宣は表向き、徳川家康に敵対する意志のないことを示しました。
「密かに三成を支援し、会津の上杉景勝と結んで家康を牽制しようとした」
そんな見方もありますが、これも史料には残されていません。
むしろ残っていたらマズい話ですので、表立った証拠がないのは当然なんですよね。
しかし中立でいたからといって「お咎めなし」とはなりません。
そもそも関ヶ原の戦いは
「豊臣秀頼の実質的な代理人である家康」
と
「それに逆らった三成」
という建付けですので、もしも豊臣政権に対して翻意がないなら家康に味方するのが筋と言えるのです。

徳川家康/wikipediaより引用
そんなわけで慶長七年(1602年)5月、上洛中の義宣に領国没収&出羽への改易が言い渡されました。
処分までに2年近くかかったのは、徳川方への実害がほとんどなく、罪状をつけることが難しかったからでしょうか。
他にも
・この時期に上杉との密約が発覚したから
・島津氏の処分を優先したから
などの理由が考えられていますが、やはり定かではありません。
常陸は江戸に近い分、真っ先に警戒されていてもおかしくないところですし。
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