武田・上杉家

第二次川中島の戦い たった一つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右した

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まずは信玄の北信濃戦略を整理

第一次川中島の戦いにおける信玄は、やや無気力症候群。

「いやいや、全然、負けてねえし! てか、川中島の戦歴にカウントしてんじゃねえよ」
的な強がり展開で終了しました。

第一次川中島の戦い~信玄も謙信も【城】中心に動くからこそ

「 ...

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同合戦はその後も第二次川中島の戦い→第三次……と続いていきますが、第一次が終了した天文22年(1553年)時点で、信玄サイドはいかなる作戦を推し進めていくことになったのか?

まずは事前の準備段階を確認しておきましょう。

信玄
上杉はどうやら……戦が分かるやつだったな。もちろんオレ様ほどではないがな
御屋形様、北信濃の国人衆は軒並み上杉寄りですぞ
信方
信玄
うん。それはわかってるんだけどさ、欲しいじゃん、北信濃
されば好機やもしれませぬ。 どうやら謙信は、本拠地を離れて遠征を重ねている様子
信方
信玄
えっ? あいつ、本気かよ? 朝廷とか幕府とか、どんだけ権威好きよ……ん、そうか……

かくして信玄がはじき出した答えは……
【謙信の留守を狙え!】
というもの。

武田ファンには苦虫な展開かもしれませんが、後の川中島の戦いにおける武田信玄の大戦略となります。

 

川中島の戦いに向けて同盟の成立を

謙信の留守を狙ってまずは北信濃を制覇する――。

この大戦略を実行していくために信玄は細かい戦略を立てていきます。

信玄
こうなったらよぉ。謙信が遠征しまくるように戦線を拡大させるしかねぇな
北関東では北条殿がおり、上杉の膝元・下越方面では国人衆を扇動するのがよろしいかと。越中方面には一向一揆勢がおりますな
信方
信玄
そうそう。ウージー(北条氏康)とはトモダチ作戦が使えるわいな

信玄は1554年、今川義元、北条氏康との間に甲相駿三国同盟を結ぶことになります。

駿河から三河、尾張へと進みたい今川家。
その軍師的僧侶・太原雪斎のアイデアとも言われますが、今川だけでなく武田・北条にとってもメリットは大きく、同盟成立後の両家は同時に上杉と当たることができるようになります。

しかも上杉家臣団は必ずしも一枚岩にあらず。調略もあたいましょうぞ
信方
信玄
おぅ、がんがんオファー出すべ! 越後の雪はハンパじゃないらしいから大雪の時期もチャンスじゃんね!
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春日山城。大雪の冬はさすがの謙信も進軍は不可能。

されば同時に北信濃の国人衆にも調略の手を……
信方
信玄
ヤツらには、アメ(金)とムチ(武力)を見せつけて釣り上げるぞ
ははっ。ご自身が南信濃と駿河からの挟み撃ちに遭わぬよう、くれぐれもご注意くだされ
信方
信玄
わーってる、わーってる。しかし北信濃いうても、塩田城じゃ遠いんだよなぁ。山城じゃあ速攻できないのよ。深志城はもっと遠いし。善光寺平の中心に橋頭堡作らないとな。あるのかそんな場所?

と、方針の決まった信玄。

南信濃においては伊那侵攻と同時に、甲相駿三国同盟の締結で背後を固め、北信濃では善光寺平の有力な国人衆「栗田寛明(栗田寛安の説もあり)」を寝返らせることに成功しました。

もちろん上杉の家臣にちょっかいを出しすことも忘れず、一気に北上します。

第二次川中島の戦いの始まりです。

 

頭脳戦!囲碁のような城取り合戦

信玄の北上――上杉謙信にとっては、毘沙門天に御神託を諮らずとも警戒レベルMAXの事案。
ということで即出撃です。

川中島の北方、善光寺平を東西に流れる犀川を挟んで両軍が構えました。

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善光寺平を東西に流れる犀川が今回の最前線/©2014Google,ZENRIN

ここで第二次川中島の戦いで非常に重要となる城「旭山城あさひやまじょう」が登場です。

善光寺の西方に築かれた、標高700mの山城。

中世の築城術では通常、高さ400m程度の山に城を収めるべきであり、あまり高過ぎると物資や人の移動が難しくなり、近づいてくる敵兵の見分けも難しくなるので、高すぎる山はやめておけ――とされています。

そうすると旭山城は高い。
700mは高すぎる。

と、思うかもしれませんが、ここに現代の【標高】表示のワナがあります。

「標高」とは海面からの高さを表しており、日本においては東京湾の平均海面が基準になります。

一方、県自体の標高がそもそも高い長野県では、この標高表示に注意が必要。
長野市は平野部の一番低い場所でも標高が360mあるのです。

たとえ旭山城が標高700mだとしても、長野市街や麓からの高さ(これを「比高」と言う)で見てみれば、せいぜいが300mちょっとで、十分に山城のセオリー範囲内にありました。

ちなみに松本城の立つ松本市の標高は約580mで天守の高さも含めると標高は620mを越えます。

松本城天守は東京スカイツリーとほぼ同じ「標高」だということが分かります。

このように「山城の特徴」を捉えようとするときは、標高表示などほとんど意味をなさないのです。
長野県や山梨県では特に注意しましょう。

 

謙信よ答えてみろ 善光寺平の支配者は誰だい?

話を川中島に戻しましょう。

この頃の善光寺の本堂がある付近(犀川の北部)は、まだまだ上杉の勢力が強い地域です。

そんな地域にあって善光寺平全体が見渡せる旭山城に、栗田寛明を入れました。調略で味方にした前述の国人であり、武田方の援軍、鉄砲や武器などの援助物資と共に籠城させたのです。

敵地に張り出した地域にあってしかも山城。

最前線の「攻めの城」の位置にありながら「詰めの城(=援軍も来るよ)」でもあるという、いささか矛盾した位置付けの旭山城には、どんな意味があったのか?

ひとつは善光寺平の「占領アピール」です。

善光寺平のどこからでも見渡せる山頂に武田の旗が翻っている様子を想像してみてください。
誰が一帯の主であるか?
ひと目で知らしめるにはこれ以上の場所はないでしょう。

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善光寺本堂。善光寺平の政治経済の中心地で、古くから善光寺の支配権を巡って多くの争いがありました

そしてもう一つの役割は上杉謙信と上杉方の北信濃国人衆に向かって「どこからでもかかってこいや!」と言わんばかりの「挑発」です。
第一次とは異なり、信玄はかなり大胆な一手を打ってきました。

旭山城は、その山城としての特徴から防御主体の詰めの城です。
しかしここは上杉方を引きつけて二正面作戦を促す目的、つまり「おとり」の役割りもありますので、防御主体の城でいいのです。

山城を力で攻め落とすのは容易ではなく、これに謙信が取りかかっている間に信玄が正面から攻撃できますし、謙信が旭山城を無視して信玄に正面から向かってきても、旭山城がある限り、常に自陣の横っ面を突かれないよう旭山城方面に一定数の兵力を割かなければいけません。

つまり少数でも籠城しているだけで旭山城は上杉謙信にとっては脅威なのです。

では先手を打たれてしてしまった謙信は何をしたのでしょうか。

 

「旭山城、おまえはもう死んでいる」戦術

旭山城が武田方に落ちたとき、謙信はすかさず「横山城よこやまじょう」という城に入ります。

この横山城は、善光寺の東側、本堂のすぐ真横に築かれた平山城です。
神仏への嫌がらせではありません。

善光寺は川中島を含む善光寺平の総元締めのような立ち場で、古くからこの地域の支配を目論む武将たちの権力争いに巻き込まれてきました。といっても善光寺自体が権力そのものだったのですが。

そんなアウトレイジな時代では、宗教施設と言えども安穏としてはいられません。

一向宗の尾山御坊や石山御坊のように宗教施設もこの時代は城郭並みに守りを固めていました。
特に善光寺のようにこの地域一帯に利権を持つ立ち場では、たとえ寺でも要塞化せざるをえません。

その善光寺の守りを固める外郭が横山城であり、その横山城の詰めの城として築城されたのが旭山城なのです。

さて、謙信は横山城に布陣してみたものの、そもそもその横山城の詰めの城でもある旭山城には、何の脅威にもなりません。

そこで謙信は、旭山城への対策として、戦のセオリーである「付け城戦術」で対抗します。

謙信は旭山城の北方、旭山よりさらに高くて、旭山城を一望できる場所にある「葛山城かつらやまじょう」を改修し、ここに陣を移動します。
次いで葛山城の後方に「大峰城おおみねじょう」も築きました。

以下の地図でご確認を。

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©2014Google,ZENRIN

紫色の拠点→謙信サイドの葛山城・大峰城・横山城

赤色の拠点→信玄サイドの旭山城

黄色の拠点→善光寺

この大峰城、昭和のお城建築ブームの時に場違いでフェイクやっちまった感満載の「近代的な」天守が建てられました。

もちろん大峰城には、戦国時代はおろか江戸時代にも天守なんてありません。

フェイクでも全力で釣られてこその城マニアが、この大峰城天守をハイパーポジティブに評価するなら、旭山城址に建てなかった判断がグッジョブ!です。←全然誉めてない。

話を戦国時代に戻しましょう。

 

善光寺の利権問題に食い込んだ信玄

「上杉謙信は付け城戦術で葛山城と大峰城を築いた」と書けば教科書の模範解答としては正解です。

では何故、有効な付け城が葛山城と大峰城なのか?
と問われれば、全く答えにはなりません。

この先を考えることで歴史がぐんと面白くなるのですが、学校教育ではそこまで踏み込みません。

おっと教育批判はそこまでだ!
というかそもそも学校でお城の意義なんて教えませんが。

城に戻ります。

葛山城は旭山城より高く、間近で圧力をかけるには最適の位置なのはわかります。
しかし大峰城については葛山城の背後にあり、存在意義が分かりません。

最初は補給の城かと考えましたがそれは葛山城で十分ですし、善光寺一帯は上杉の支配地域ですので補給ルートの確保や補給地点に難はありません。

すべての城にはそこに立つ理由があると考える私には、大峰城の位置に特に言及する資料もなくモヤモヤが残ります。
そこで私見を入れさせていただきますと……。
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