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【飯富虎昌】
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そもそも武田義信の母・三条夫人も今川氏の仲介あって、武田に嫁いできました。
さらに義信の正室は今川義元の娘です。
義信にとっては深い縁がある一方、信濃からの北上は上杉謙信が立ちはだかり、義元の亡き今川が相手であれば、武田家にとっては駿河へ南下するほうが効率的。
永禄8年(1565年)10月15日――飯富虎昌はこうした父子対立の中、命を落としたとされます。
ただし、この時点で義信は決定的な罪には問われてはいません。
最側近の虎昌を処刑することで、事態の収集をはかろうとしたとも考えられます。
信玄が書いた書状には「義信とは決裂していない」と記されており、そう認識したい思いがうかがえます。
それでも猜疑心はあったのでしょう。
信玄は周辺の警備を固めて執務にあたったとされ、最終的に虎昌の死によってわだかまりが消えることはありませんでした。
虎昌の死から2年後の永禄10年(1567年)、信玄の嫡男・武田義信は早すぎる死を迎えたのです。
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死因は自刃とも、病死ともされています。
いずれにせよ、父・信玄との対立が命を縮めたことは否定できず。
信玄は、ますます深く今川領へ侵攻すしていくのでした。
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受け継がれる赤備え
武田家中でも屈指の猛将が死を迎え、名門飯富家は断絶させられました。
『甲陽軍鑑』では、虎昌の暗殺計画を信玄に密告したのは、弟(あるいは甥)の山県昌景だったともされていますが、兄の赤備えは、他ならぬこの昌景が継ぐことになります。
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武田家の戦場で、具足、旗指物、鞍や鞭まで赤く染め抜いた飯富虎昌の姿は、味方を勇気づけ、敵を震撼させていました。
その赤備えは消えなかったのです。
山県昌景も猛将として名を馳せました。
兄が存命だった頃の第四次川中島の戦いでも本隊にいて、前衛中央で本陣を守り抜いたと伝えられます。
虎昌から引き継ぎ、赤く染まった山県昌景の姿は、敵からすれば悪鬼そのものであったことでしょう。
しかしこの猛将も【長篠の戦い】で討死を遂げてしまいます。
大河ドラマ『どうする家康』では、山県昌景を橋下さとしさんが熱演されていました。
真田や井伊にも引き継がれ
昌景の死後、武田の赤備えは、他家にも引き継がれてゆきました。
武田の軍制を踏襲した徳川家中において、随一の武勇を誇った井伊直政が。
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「井伊の赤備え」は幕末の戦場においては、印象が悪化します。
格式ある家だと威張り散らす。そのくせ弱くて臆病だ。赤いからかえって目立ってしまう。そのせいで時代錯誤の代表格とされてしまいました。
しかし幕末でその火は消えず、現代へも伝わっています。
真田幸村の赤備えは、武者絵、講談、立川文庫、時代小説、映画、大河ドラマ、漫画、アニメ、ゲーム……大衆演芸の中で愛され強い存在感を示し続けてきました。
その祖として飯富虎昌がいたことも忘れないでおきたい。
大河ドラマ『武田信玄』では児玉清さん、『風林火山』では金田明夫さんが演じています。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
平山優『武田信玄』(→amazon)
平山優『図説武田信玄』(→amazon)
別冊歴史読本『信玄と武田一族』(→amazon)
笹本正治『武田信玄』(→amazon)
奥野高広『武田信玄』(→amazon)
他